2010年05月10日

エリアの騎士はやっぱり僕には合わない。

ひどい!
ほんっとーにひどい!!
まだ、11巻までしか読めてませんが、連載開始からずっと変わってない。
この作者はサッカーをなめてる。サッカーを読者を釣るためのネタだとしか思ってない。

読んでいてなんでこんなにムカムカするのかわかりました。
恋空と一緒なんですけど、作者、編集者の作為的で、相手をこっちに注目させることしか考えてない、読者のことを本当に考えてない、相手思考がないのがありありと見えてしまってムカムカするんです。全くもって、僕がイライラしてしまうマスゴミとか押し付けデザインなWebサイトと同じなんです。延々と流れるFlashとかね。

だから、本当にケータイ小説のまんまです。
あと、いまtwitterユーザにバカにされているドラマ「素直になれなくて」とそっくりです。


■シュート!の劣化コピー
この原作者は、シュート!の編集担当だった人なんですよ。
たぶん、シュート!の大HITで味をしめて、次もいけるだろう、自分にも物語がつくれるだろうと勘違いしているんだと思います。自分はただの編集者で、コンテンツを作り上げたわけでもないのに。

 ・日本サッカー史上、類を見ない天才が死ぬ
 ・その後からが本当のストーリー
 ・その天才がローティーンの頃に海外でブラジルの天才と会う
 ・ブラジルの天才が日本に来る
 ・自由奔放なサッカーを身上とする
 ・管理型サッカーの強烈否定
 ・ともかく毎試合相手に謎があって、それを解いて勝つシステム
 ・司令塔が超人的にキレ者で謎解きする
 ・Φトリックという”消える”フェイントw
 ・守備やマーク専任のサッカー素人、陸上部員が投入される
 ・夜な夜な公園で勝負を挑んでくる謎の奴がいる

ね。
おっそろしいほどシュート!に出てきたエピソードの数々。
それで面白きゃあいいんですけど、すんごいつまんない。
なぜか。
シュート!の面白い部分を上記のエピソードだと思っていて、
それを使えばまた面白くなるとしか思ってない。

 ・その天才がローティーンの頃に海外でブラジルの天才と会う
これなんか、光岡のエピソードそのものですよ。
でも、彼は日系人なのです。だから、日本に来る理由がある。
親交のあった人に誘われ、離婚した母親を愛するあまり、日本に移住することを決意するのです。
けれども、最終的には魅力溢れる日本代表と敵として戦いたいがために、ブラジルに戻ることを選択するんですけどね。
それでも、彼は日本代表に多大な影響を与え、チームに結束を生む大切な役でした。
エリアの騎士のシウバというブラジルの天才は、ただ単に金で来ただけらしいです・・・。
ブラジルの天才が金だけで日本には来ないだろ。それに日本の高校にそんな金は無い。


■メッセージや哲学、価値観が無い
「リアリティが無い」というのも一つなのですが、漫画はそもそもリアルではないです。
でも、リアルに存在するサッカーをというネタをモチーフにする以上、どこかにリアリティがないと漫画は成立しません。いや、”人間”というリアルを扱っている以上、どんな漫画にもどこかにリアリティは必要になります。

サッカー漫画、スポーツ漫画において、どこにリアリティを表現するか。
それは、そっくりそのまま原作者の「メッセージ」そのものになるんです。
原作者が思う、読者に伝えたい「サッカーの魅力」そのものになります。
だから、作品ごとに違って当たり前ですし、それが無いなら漫画なんか書かない方がいい。
twitterドラマが叩かれているのは、初のtwitterドラマと大々的に宣伝しておきながら、twitterである必要が全くない、そこにメッセージが無いから叩かれるんですよ。その題材となるものをしっかり調査もせず、理解もせず、楽しさも全く把握してないゆえ、twitterの魅力なぞ全く出てきません。主人公達は活用してないし。twitterはただ単に、注目を集めたいだけのものなんですよ。

シュート!にエピソードが酷似していても、シュート!は面白かった。
僕にとって最高のサッカー漫画はシュート!です。

シュート!にはメッセージがある。
久保嘉春は物語を盛り上げるために死んだんじゃない。
あの漫画は、その彼の「楽しいサッカーをしたい」という強い思いに共感し、それを表現したいと集まった掛川イレブンを表現するための漫画であり、その開祖が久保なのですよ。ただ悲しませるため、他が成長するために死んだんじゃない。彼がいなくてもいい、大事なのは彼のその魅力に、彼のサッカーの魅力にひきつけられた仲間達が、一心不乱にそれを目指す素晴らしさを表現したいがために、久保は存在するんです。だから、久保無しには語れない漫画になってる。8巻でそれこそ伝説的な最後を遂げるのに、彼はその後もそこかしこで、それも直接姿を晒すことなく、登場します。どこに?掛川イレブンのプレー、発言、その一つ一つにですよ。

シュート!のメッセージは、「仲間」「信頼」です。
キャプテン翼の半世代後ぐらいにスタートしている漫画なので、必殺技はたくさん出てくるわ、トンデモなプレーがたくさん出てきてしまい、そりゃあ非現実的な部分はありました。そこに興ざめする人もいます。でも、僕はそこは漫画なんだからそれでいいと思っているし、シュート!が本当に伝えたいのはそこではないから、余り気にならない。その辺がキャプテン翼とは違う。

カリスマ的な存在の神谷は、確かにエリアの騎士の荒木のように相手の謎を解き、絶対的な存在として登場します。しかし、神谷は初めからそうだったわけじゃない。「楽しいサッカー」「自由なサッカー」という久保の、一番の理解者であり、最も近くにいた相方であり、同時にライバルであり、久保の存在に最も悩まされた一人です。ゆえに、彼は物語の初めからカリスマだったわけじゃない。久保存命時は、むしろ脇役でした。神谷がその叡智で絶対的な司令塔に成長したのは、久保の死後です。親友であり、憧れでもあり、そしてライバルでもあった久保を失った彼だからこそ、それを乗り越え、ミラクルチームと評される掛川を主将として引っ張っていったからこそ彼は成長し日本サッカーのトップに上り詰めるのです。そこには高校生には考えられないような葛藤があり、親友を失った悲しみがきちんと描かれています。

神谷は、自分が目立つためにサッカーをやっているわけでない。
亡き親友の久保のぶんまで、自分が活躍し、久保が目指したサッカーを誰よりも体現したい、世間に知らしめたいと思っているからこそ、サッカーを楽しみ、真剣に取り組んでいるわけです。だから、エリアの騎士の荒木と違い、神谷はあまり派手なプレーやドリブル突破を多用しません。それはただのスタンドプレーであり、神谷の実力だけで勝つことになるから。神谷はいつでもチーム全体のことを考え、チーム全員の、信頼できる仲間の力を最大限引き出せるようにプレーすることしか考えない。だから、彼のプレーはパスであり、味方のあがりを促す「ロングキープ」なのです。

シュート!はその久保と神谷の友情に始まり、主人公である、トシ、ケンジ、和宏の1年生トリオや、大塚、赤堀と神谷の2年生トリオの信頼や友情物語なんですよ。だから、無駄に神谷だけ活躍したりしない。

高校選手権決勝、vs帝光(帝京がモデル)のロスタイム1点ビハインド。
神谷が怪我をしてピッチに倒れた時、神谷は、意識が遠のく中で、ボールが通り過ぎるのを確認しながら倒れふします。そこで、彼は半年前に他界した久保への想いが蘇り、志半ばで倒れた親友の気持ちは、こういうものだったのか、自分の力の無さを感じながらアイツも倒れたのだろうかと思った矢先、彼は意識を取り戻し、負傷している右足を、自分の腕で無理やり引っ張ってふんばります。そして彼は叫びます。

「俺はまだ久保になれてない。チームを救った1点を俺はまだとってない」
「そして何より、俺はまだやれる!」


神谷は、ロスタイムに奇跡の同点弾をぶち込み、延長戦に持ち込みます。
そのとき、神谷は身を投げ出すようなオーバーヘッドで得点します。かっこよくは無いですね。でも、神谷は、亡き久保の夢を打ち切らせないために、強い心で立ち上がったのです。ここでも作者は神谷の凄さを表現したいわけではないことがわかりますよね。

そして、その神谷が何針も縫わなければいけないような怪我をしているのに、強行出場すると言っていうことを聞かないのを見て、同じ2年生で温厚でニコニコしているだけだった赤堀が、たぶん初めて烈火のごとく怒ります。休めと。すると、神谷はそれにあっけに取られ、退場することを受け入れます。しかし、なんと、天下の帝光相手に、交替することを拒みます。自分が戻るまで10人でやれという無茶を言う。イレブンが反対する中、唯一、赤堀がそれを認めます。

「わかった。神谷を待つ。その代わりドクターが良いって言うまで絶対に出てくるな」

掛川イレブンはその赤堀の言葉を受け、延長戦を10人で戦うことを決意します。
そして、神谷は延長後半から登場するのですが、ここでも一つのエピソードが入ります。
応急処置しかしていない神谷は、万全の状態ではなく満足に走れません。それでも、アツイ感情を持つ神谷は歯を食いしばって走り回ろうとするのを、もう一人の2年生である大塚が止めます。お前は、前線に残れと。

天才久保嘉春に憧れて掛川サッカー部に入部した面々がほとんどであるサッカー部において、大塚は、自身はそうではないと神谷に伝えます。サッカー部が創部まもなく人数が足りない時、サッカーをやめるつもりでいた大塚と赤堀は、中学時代の神谷の悪評を聞いていて、久保が頭を下げているにもかかわらず、神谷がいるチームではサッカーはしたくないと堂々と発します。しかし、実際にチームメイトとして一緒にプレーするにつれ、大塚は、自分が神谷を誤解していたことを幾度も痛感させられます。そして大塚は創部からともに走ってきた主将神谷に、足を引きずりながら走ろうとする神谷に言います。

「俺は他の奴らとは違う。俺は、お前にパスを出すために掛川サッカー部に入ったんだ。だから、俺はお前に必ずパスを出す。お前はそのスルーパスで得点シーンを創れ」

大塚は、全国レベルで言えば並みのプレーヤーです。
しかし、そんな大塚にもこれだけのエピソードがある。
それは、シュート!の原作者が伝えたいものが、大島先生が考える「サッカーの魅力」が「友情」や「信頼」にあるからなのだと思います。ゆえに、他の漫画に比べて緻密なパス、ドリブルの解説などは少ない。それより、ともにボールを追いかける仲間の素晴らしさ、パスを交換することの素晴らしさを伝えたい。ゆえに、ああいう描写になるのでしょう。

だから、シュート!には「コンビでなければとれないパス」や、長年連れ添った友達だからこそわかる阿吽の呼吸というものがクローズアップされる。高校選手権中にケンジが警察に連れて行かれ、しかし一度も相手に手をあげてないケンジは、それでも自分の名前を隠します。自分の身元がバレれば、掛川は出場辞退しなければならなくなるから。

脇役でスピードしか取り得の無い左ウイングの佐々木がピンチになれば、その後ろに控える中学時代からの親友:左サイドバック新田は必ず助けに参上します。逆もまたしかり、です。両者も主人公達に比べればレベルが落ちる二人なのですが、それでも試合で活躍し、そしてそれは単純に個人能力ではない。お互いの信頼や友情が、時に主人公達を超えるプレーを実現する。

その新田は、先輩である赤堀に、DFラインのコントロールは自分に任せてくださいと言い放ち、赤堀の負担を軽減させます。そして彼は、誰も追いかけていなかったボールを赤堀よりも後ろで察知し、チームのピンチを間一髪で防ぎます。それは、新田が常にベンチでもイメージトレーニングを怠らず、そして努力に努力を重ね、筋トレと走りこみを繰り返した結果であり、掛川イレブンの誰もがそれを見ています。

物語のなかで掛川を評する言葉に、こんな言葉があります。

「神谷や田中、平松が凄いから掛川が奇跡なんじゃない。全員が同じ思想を持ち、お互いを信頼し、一つのチャンスに勇気を持って飛び込める、そんな奴が11人集まったことが、掛川の奇跡なんだ」

まさしく、作者が言いたいこと、サッカーの魅力とはそこなのでしょう。
これは、僕が好きな名波のサッカー観にも通ずるものです。
だから、僕はシュート!が好きなんだと思います。
選手権で優勝した神谷は優勝旗を受け取る時に、左手にスパイクを抱えています。
それは、半年前に亡くなった、親友久保のものです。
「やっぱり、アイツとここに来たかったですから」
このシーンは今でも泣いてしまいます。


■キャプテン翼、ファンタジスタ、ホイッスル、Jドリーム、オレンジ・・・・
そう考えると、各作品それぞれ、確かにメッセージが違います。
バカにされがちなキャプテン翼だけど、しかし日本サッカーへの貢献を考えた場合、キャプテン翼を超えるものはまだないでしょう。僕だって小中学生の頃ははまってましたし。キャプテン翼がスタートした頃はJリーグなんて影も形も無く、日本にプロリーグができるなんて誰も思っていなかったときです。日本人はサッカーなんて体育の授業でしかしらないような状態だったものです。

その当時に必要なのは、「サッカー全般の魅力を知ってもらうこと」だったのですよ。
だからトンデモな必殺技の応酬になりまるでサッカー版ドラゴンボールみたいになったのですね。でも、サッカーというものがまだまだ知られていない状況では、まず、サッカーってなんなの?っていう部分から魅力を提示しなければならず、サッカーを知ってもらうことが一番大事になるわけで、ゆえにそうなるのです。だから、あの時代だからこそキャプテン翼が必要だったのですよね。高橋先生はサッカーを馬鹿にしたいわけではなく、先生自身がサッカーをそこまで知らなかった中で、一生懸命取材して、どうやって楽しく魅せるかを考えた結果なのですね。そのおかげで、どんな主人公より有名なサッカー少年:大空翼が生まれるのですから、素晴らしいです。

たとえば、「ホイッスル」
ホイッスルは、サッカーのテクニックやスペクタクルというよりは、中学生という多感な時、その未熟な彼らがサッカーを通して成長していく、そこにサッカーの素晴らしさがあることを伝えてくれます。桜上水中は掛川にはない、エピソードがたくさんあります。特に、才能に恵まれた子と、そうでない子の組み合わせの葛藤。中学サッカーではどこでも起こりうる、運動神経の悪い子と、良い子の葛藤、衝突。そして、同じポジションでのポジション争いなど、そこに中学生等身大の”人間”がいるのですよね。多感な時期を、一緒にボールを蹴って汗を流す体験の素晴らしさにサッカーの魅力がつまっているというメッセージですよね。だから、中学の現状や選抜の話など、そのあたりに物凄くリアリティがあります。太っちょで足の遅いDF野呂君は、破天荒な天才GK不破と折り合いがつかずサッカーをやめる選択までするのですが、両者が歩み寄り、自殺点を防ぐシーンはまさしく、信頼や友情をこれから築き上げる世代のエピソードです。


たとえば「ファンタジスタ」
この作品はシュート!やホイッスルとは一線を画します。
友情や信頼というより、もっともっとサッカーのドリブルやパスなどの”プレー”に言及した作品です。この作品のメッセージはそのタイトルが示すとおり「ファンタジスタ」ですね。一つのパス、一つのドリブルで局面が変わるその瞬間こそにサッカーの魅力がつまっている。とくに、他作品では圧倒的なテクニックや決定的なパス、驚異的なドリブルや、試合をつくる創造性などで表現されることの多い「ファンタジスタ」という人種を、「誰にも見えていない3秒先の世界を描ける選手」と表現したのは、全く新しい試みだったと思います。そして、文字通り、読者はそのファンタジーに酔いしれることができる作品です。コミックス8巻のメキシコ戦で主人公:坂本轍平が見せる全てを掌握してしまう未来映像プレーは、圧巻の一言です。


他にはJドリームやオレンジがありますね。
この二作品は割と共通する点が多いかもしません。
どちらもクラブチームと代表が題材になることが多い。
オレンジはその中でも地方クラブの葛藤、そこから這い上がることの難しさ、素晴らしさを描いている作品です。
Jドリームは赤星鷹を中心とした、「友達とのサッカー」というシュート!寄りの作品ですね。

そして、現在のジャイアントキリング。
これは、本当に今までに無い作品です。
監督にスポットを当てているのもそうですが、それ以上に徹底したリアリティにより、サッカーを現実的な面白さ、どこまでもどこまでも実際にサッカーをプレーする、観戦する楽しさを訴えている作品です。ですから、トンデモプレーはほとんど出てきません。Jリーグと完全にイコールなレベルです。そこに、面白さがある。選手の葛藤や、コンディション、サッカーの質や戦略性など、実際のサッカーの面白さを十二分に語ってくれる作品で、もし、実際のJリーグのサッカーの楽しみ方がわからないという人は、ジャイキリほどうってつけな作品はありません。きっと、どこかのサポーターになりたくなると思います。


どの作品にも作者なりの「サッカーはここが楽しいんだ!」っていうメッセージがあるんです。
それを、作者は伝えたくて、共感して欲しくてサッカーを描いているのがわかる。
エリアの騎士にはそれがない。

「こうしたら面白いだろう?」「こうしておけば見るだろう?」
というような、クリエイティブ側のおごりが見られる。
それは、ケータイ小説もそうでしょう。
ただただ主人公を悲しませたいために悲劇が用意されている。
スナナレ(ドラマ)も同じ。注目を集めたいだけにtwitterが登場する。
ダメなマスコミと同じですよね。

だから、イライラするんだと思います。
シュート!はあんなに感動したのに、エリアの騎士にはイライラさせられる。
サッカーをなめてるんだろうなー。
posted by 総さん−ソウサン− at 23:59| 神奈川 ☁| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月21日

ユーザにわかる言葉で。

商品やサービスの価値を伝える時、当然数字を使う事が多くなりますが、多くなりすぎたり、結局それで分かりづらくなっては意味がない、という話です。

デジカメのバッテリーについて「連続使用時間72時間!」と数字で訴える事は当然必要ですが、それだけではユーザ視点にはなっていないのですよね。例えば競合商品が「65時間!」と謳われていたとき「おお!7時間も違う!」という人はあんまりいないんじゃないかと思います。「長持ちするに越した事はないわな〜」という人が大半じゃないでしょうか。7時間の差を常に体感できているわけではないですからね。

「2泊3日の旅行でも充電無しで大丈夫!」というキャッチコピーの方がユーザには断然わかりやすい話ですよね。ユーザに理解できる形で価値を伝える事で「自分はこの商品の客なんだ」と思わせる事が大事だといいます。

で、なーんでこんな話を思い出したのかというと、レンタルビデオ店の対応に疑問を覚えたからです。基本的には一週間レンタルがほとんどだと思うのですが、その1週間にしてもお店によっては24時間営業のところもあって、その場合、各店舗に「日付変更時間」というのが存在します。

日付変更時間と言っても、実際に日付が変わる0時ではなくて、あくまでも営業上の日付なので大体が翌日の朝型か午前中に設定されています。翌朝5時だったり、10時だったり。すると、つまり一週間でレンタルをすると実質の期限は一週間後+翌営業日の日付変更時間まで、となります。仮に翌朝AM10時が日付変更時間だったとすると、例えば10月1日(月)にレンタルした場合、返却期限は一週間後の10月8日(月)の翌朝10時=10月9日(火)10時になるわけです。

ここで、サービスが分かれるのです。
レジで商品を渡す時のセリフが違いました。

■10月1日(月)にレンタルした場合
 A店:「一週間のレンタルのため、10月9日(火)午前10時までのご返却となります」

 B店:「一週間後、10月8日(月)の翌日午前10時までのご返却となります」


一見、A店の方が正確に情報を伝えているのですが、少なくとも、僕はB店の方が断然わかりやすいです。こちらは「一週間」ということは基本概念として頭に叩き込まれているわけだから「月曜に借りたから、返すのも来週の月曜」+「でも、翌日の朝10時まではセーフ」と覚えるだけで把握できる。

A店の伝え方だと、せっかく予め持っている「一週間」という基本概念を一瞬頭から外す事を余儀なくされる。お店のシステムとしては全く同じなので、結局言っていることも結果的には同じなのですが、B店の場合は基本的に「来週の同じ曜日に返す」という基本さえ抑えておけばいいのに比べて、A店の場合は無駄に「10月9日」+「10時」という数字の情報が入ってきてしまうため、覚えづらくなる。

情報を与えすぎても、良くないんだなぁ〜と思った次第です。
相手が最もわかりやすい形で伝える事が大事ですよね。

これ、なんとなく恋愛にも言えるような気がします(笑)
posted by 総さん−ソウサン− at 22:57| ☁| Comment(6) | TrackBack(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

なつかしの桑田vs桜井とカラオケ。

「日本でただ一人、エルビス・コステロを歌える人」by 槇原敬之

Mr.children 桜井さんのことです。
何もいいません。これを見てください。
ミスチル桜井とサザン桑田のカラオケ対決(音楽寅さん)
ニコニコ動画です。なので午後7時以降は見れませんw

で、まあこれはいつか見てもらうとして、このニコ動の一部がYoutubeにもありました。




おいおい、どんだけうまいんだよ(笑)
興味のある人はニコ動のフルバージョンも見てみてください。
サザンの「みんなのうた」も歌ってて、それもめちゃくちゃうまい。
「これこの人の歌なんじゃねぇの?」っていうぐらいうまい(笑)

桑田さんもすごいです。
「イノセントワールド」も、「FirstLove」もうますぎ(笑)
何より、番組として面白いです。
イノセントワールドのイントロ中の桑田さんの暴言。

「おい桜井コノヤロー!この歌はこういう風に歌うんだよバカやロー!」

超ウケた(笑)
その人自体が正解なのに、間違いだと言ってしまえることが素敵。
最後のユースケのサプライズも素晴らしいですね。(まあ、仕込だと思いますが)
この二人がタッグを組むなんて、これ以上の最強デュエットって見当たらないんじゃないでしょうか。奥田民生と井上陽水ぐらいなもんでしょうか。

桜井和寿という人は、実は誤解されやすいのだけど、この人はちゃんとお腹から声を出しているんですね。前にそういう話を聞いたのだけど、確かに他の人の歌を聞くとなんとなくわかる気がします。奥行きがあるというか。そのしっかりとしたボーカルの基礎があって、その上にあの独特のハスキーなんだけど甘い声があるから、この人は唯一無二のボーカリストなのかもしれません。

ご存知の通りミスチルファンを公言して憚らない僕なので、CDもたくさん持っているし(っていうかほとんどミスチルしかない)、聞いた曲数も回数も半端なく、だいたい桜井さんがどのへんで声をしゃがれさせて、どの辺で叫ぶかも勝手に覚えています(笑)おかげで「他のアーティストの曲を桜井さん風に歌う」という、全くもって何の役に立たない芸を習得したのですが(笑)、意外にカラオケではそんなに歌いません。

いえいえ、めっちゃ歌いますよ?
でも、それは気心しれた仲間とか彼女さんの前だけです。
それ以外の時は、あんまり。もうどうでもいいやっていう時は歌いますが。
よく「ミスチルを歌う奴はモテようとしている」などと言われ、どうやらモテカラオケの王道らしいのですが、少なくとも僕にそれはないですねぇ。むしろ、モテようとしたらまずミスチルは歌わない(笑)

あのー、気にいらないのです。
桜井和寿ではない自分が。
他のアーティストの歌だって歌うし、当然僕はオリジナルではなく、カラオケとはそもそもそういうものなのですが、ミスチルだけは違和感の値が大きいのです。逆に言えば他のアーティストはその辺がどうでもいいということなのですが(笑)堂本剛とかバンプとかコブクロとか、気にならんのです。でも、桜井さんの声だけはどうも気になるのです。頭の中でCDをかけられるぐらい記憶している曲ばかりなので、ギャップが激しいんでしょうね。

そのギャップが激しすぎて、くっそー下手くそだなぁと思うのですよ。
そもそも別に歌がうまいとも思わないのに、その中でもより「へったクソだなぁ・・・・」と思うのがミスチルの曲なんですね。だから、そんなもんモテようと思ったら歌わないでしょう(笑)しかも、ミスチルってなんか合コンとかで歌ったら他の曲より求められるハードルが高そうだし。「うまく歌えないんだったら歌うな」という空気を感じるというか(笑)

あのー、これは自分に関してだけです。
他の人がミスチルを歌っていても、それは全然気にならない。
カラオケなんだから桜井さんとは違って当り前(笑)

いやー何が言いたいんでしょうか僕は。
だんだん自分でもよくわからなくなってきました。

まあだから、僕がミスチルを歌っているときは「モテたい」とは真逆で「もうどうでもいいや」っていう時だと思ってください(笑)
posted by 総さん−ソウサン− at 20:01| ☁| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

僕はただの装置でもいい。

生きていると、それはそれは辛い事の連続ですね。
生きていると、それはそれは楽しい事の連続でもあるのですが。

僕は、生きているだけで幸せです。
辛い事もありますよ。あーもう嫌だな〜っていうこともある。
でも、死ぬよりはマシ。死にたくないもん。生きてる方が幸せな事が圧倒的に多いから。結局、それをいくつ見つけられるかが、「生きる」ということなのかなぁとも思います。最近は。地位も名声もそのうちのひとつにしか過ぎない。

わかってはいるのです。
でも、どうしても理不尽さを感じてしまう。
今の僕の周りには幸せの絶頂だったり、その幸せに向かって順調に走っている人間もいれば、不幸のどん底を感じている人間もいる。僕だって、全人生のなかでいえば、少なくとも27年のうちワースト3に入るぐらい落ち込んでいる時期ではあります。これを「差」ととるか「リズムの違い」ととるかで、その人の人間力が見える気がしますね。

僕の幸せは、僕にはどうにもできない部分もあって、それは仕方ない。やっぱり、運もあるし。自分のメンタルや環境だって、僕は自分の今の性格を嫌いではないけれども、いくつもの環境を作り出した偶然があってこそ。齢80を越える祖母ちゃんが「まあ、そういう意味で言うなら人生の半分は運だね」と言ってました。そういうことなんでしょうね。自分が得た力というものも、確率論という話をベースにするなら、運によるものが大きいですし、そもそも今の両親のもとに生まれたことすら「運」ですから。

どうしようもない波というのは、物理的にも人生の流れとしてもあると思います。人はそれに悩み、時に希望を打ち砕かれるわけですが。そう考えると、僕におきる不幸なことは当然友人にも起きるわけで、そして起きない事もある。現実に今そうなっているわけですし。理不尽とも思えるような"リズム"がありますね。リズムをしっかりとつかめる力があるかどうか、というのも大変大変大事な事ですけどね。

抗うことのできない自分の人生の流れ、そして仲間の人生の流れというものがあるとして、僕はどうやって生きぬくのか。僕が持つべき最大の武器は「自分はどうありたいか」という大波にも負けない自己の進路なのかなと、最近は思うようになりました。決して揺らぐ事の無い自分の追い求めるもの。それを人は信念と呼ぶのかもしれません。

僕の信念。
大切にしたいものはいくつもあります。
しかし、それは時の流れによって、自分の行動とは関係の無いところで失う、失わざるを得ないものでもあるのかな、と最近は思うわけで。そう考えると、自分の揺るぎない信念、つまりそれは「目標とする最小限の自分」となるわけですが、その「自分」を持つことこそ、大事な事なのだと、思います。

僕は、人の心を増幅できる人でありたいです。
希望を失った人には、希望を見出せるだけの心を与えられる人。
希望をもっている人には、その希望に邁進できる心を与えられる人。

僕が何者でもいい。
僕の言葉かもしれないし、態度かもしれない。
何でも良いんです。
僕の行動によって、相手が何かしらを感じ、一歩でも進んでくれれば。

人間の燃料は心だと常日頃訴えている僕ですが、
その燃料を注ぎ込める人になりたい。

「あー辛いな。ウザいけど、でもアイツと話すと元気出るんだよな」
っていう存在でもいいんです。それが機械なら、僕は進んでその機械になりたい。

人間は、結局心です。
やる気がきゃ、いい仕事はできない。
本気で好きにならなきゃ、良い恋人にはなれない。
本当に相手を求めなきゃ、いい友達にはなれない。
本気で、人生を歩こうとしなければ、幸せにはなれない。

僕は、心を増やせる人になりたいです。
posted by 総さん−ソウサン− at 00:02| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月16日

CMのあるべき姿。

CMにこれほどイライラさせられているのは日本人だけ?

結構長い記事なので読むのが面倒臭いという人のために要約すると、つまるところ「日本のCMと海外のCMでは全くスタンスが違う」という話です。どう違うかというのは、下記引用より。

CMの出し方は、ここ数十年で格段にあざとくなった。さあいよいよ真犯人がわかるというところでCMなどというのは当たり前。盛り上がって、さてクイズの答えというときにもCM。CMあけにはCMまえのシーンがまた繰り返され、答えを言うのかと思えば、そのまままたずるずると映像が続き、再度CMに突入、などということも珍しくない。
 われわれはこのようなCMにすっかりならされてしまっている。しかし、こういうCMの出し方は、どこの国でも行なわれているというわけではないようだ。欧米では山場CMは日本よりはるかに少なく、話が一段落して入れるCM(このレポートでは「一段落CM」と名づけている)が圧倒的に多い。

以上、「歌田明弘の『地球村の事件簿』」より抜粋


この[山場CM]の比率が圧倒的に日本は高いらしい。
言われてみれば、クイズ番組の正解発表前、バラエティの面白い映像ダイジェストの後の本編、ニュースにしても「続いてのニュースは」などと言ってCMを挟むことがほとんど。これが欧米では圧倒的に少ないらしい。理由も単純明快で、視聴者からの苦情が殺到するからとのこと。

僕は、上記リンク先に書かれている「タダで見るんだから、多少イライラさせられたって仕方がないだろ‥‥」という人種で、そもそもTV局や制作側に苦情を言う人の気が知れないというタチなんですが(誤報や捏造は話が別ですよ)、苦情を言わないにしても確かに「CM」というもののあるべき姿からするとおかしな話だなぁと思いますね。全然気付きませんでしたが。

「視聴者の心象を悪くするから山場CMを行わない」というのは、当り前すぎるぐらい当り前の論理で、これは要するに"ブランディング"と呼ばれるものなんですよね。"ブランディング"や"ブランド"というものを語る時、やれカッコいいデザインだの、流行の最先端だの、はたまたカッコいいロゴだの、CIだのと叫ばれがちですが、その論議こそが生産性が低いと僕は思います。(全くの無意味だとはいいませんが)

ブランドというのはメーカーと消費者を繋ぐ"信頼"であって、その信頼はどのように構築されるのかというと、当然「顧客満足獲得の連続行為」からなるわけです。Panasonicの商品が多少高くても受け入れられるのはそれ相応の安定したクオリティを持つ商品を多数、そして長期間にわたって消費者に提供してきたからであって、別に「Panasonicのロゴがカッコいいから」ではないですね。だからこそ「タイマーがついている」と揶揄されるウォークマンを生み出したブランドは価値を下げているわけで。同時に、そのブランドを認めている人もいるわけですが、それとて同じ事。

もちろん、ブランドや商品においてデザインや、そのデザインの一部となるロゴというものは多大な価値を生み出します。が、外見やデザインというものは商品やサービスの一部の価値でしかなくて、それが全てとなってしまっては意味がないわけです。物凄くカッコイイロゴの会社がDVDレコーダーを発売したところで、2割が不良品、カスタマーサポートが薄い、では誰も買わなくなるでしょう。

当然、大手メーカーのようにロゴが多大な力を持ち、そこにファッション性や信頼を生み出す価値を持ったメーカーも存在します。それは本当に素晴らしい事であるし、そのロゴの持つ力、信頼性というのは是が非でも維持していくべき。でも、それはロゴが力を持ってからの話であって、サービスも商品も消費者が求めるものを提供できていないのに、ロゴだけ変えても何の意味もありません。

amazonなんか、本当にいい例で「本屋なのにアマゾンってどんな名前なのよ」って初めは多くの方が思ったと思います。が、そのamazonは今や書籍・映像商品通販サービスの押しも推されぬトップブランドになっているわけです。それはamazonが長期にわたって消費者のニーズを満たしてきたからに違いありません。(余談ですが、amazonはカスタマーサポートも優れていると思います)

要するにブランドとは
「お客様が自社に何を求めていて、どのように応えるか」
ということそのものであり、それを確立していくことこそが「ブランディング」なんだと思います。

そう考えると、日本のCMのスタンスは確かにおかしいわけで。
確かに、TV局にお金を払うのは企業です。
がしかし、企業が満足するCMを提供してどうする。
TV局も企業も視聴率という数字にしか目がいってなくて、肝心の「お客様」に意識が向いていないんでしょう。お客様視点に立てば、山場CMというのは明らかにやめるべきですから。

こういう話って、実はWEB業界も例外ではないんです。
企業の広報担当者と話をしていると、どうしても「こういうことを伝えたいんです」とか「わが社の理念は・・・」なんていいがちなんですが、WEBサイトを使うユーザにとっては、そんなもんどうでもいいんですよね。そんなことよりWEB上でどんなサービスを受けられるのかが大事であって、そこに必要な情報やサービスがあればユーザは満足します。

日本のCMがどうしてこうもお客様を無視した山場CMばかりなのかというと、皮肉にもほぼ全ての番組が山場CMを行っているので、視聴者にとってそれが当り前になっているからなんでしょうね。仮に、皆が一段落CMを使っていれば、山場CMは叩かれ、それを行った企業の心象は悪くなるでしょうから。

TV業界は、いつかこの矛盾、というより自分本位なサービスを行っている事に気づくんでしょうか。
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2007年09月14日

人生は上々だ。

なんて、ドラマがありましたね。10年くらい前に。
いや、結構面白かったんですよ。浜ちゃんとキムタク。

ココ最近思う事は「人生が上々になるかどうかは、自分次第だなぁ」です。
おおう、なんだこの当り前すぎる格言は。
環境がイヤなら変えればいい。自分がイヤなら変えればいい。
そういう話になりがちですが、そういうことではなく。
(それも真理だと思いますよ)

ずいぶん前に、「人はなぜ人を殺してはならないのか」という記事を書きました。それなりに反響もあり、嬉しい限りだったのですが、結局これも同じなんですよね。ただの「ルール論」。で、ルールそのものが生物という論理から言えば"絶対"ではないから、その解にも絶対的な答えは無い。「人はなぜ人を殺してはならないのか」→「そんなものに絶対的な答えはない」ということです。

世の中にルールというものが存在し、その存在意義と、そして時代によって変わってしまうというある種の軟弱性を見る限り、ルールというものは所詮、数多の価値観の集合体でしかなく、人はそれを「常識」と呼ぶのだと思います。結局、その程度のものでしかないと。

なぜ、万引きをしてはいけないのですか?
万引きを許してしまうと、社会が崩れるから。
なぜ、社会を崩してはいけないのですが?
たくさんの人がともに生きるために社会が必要だから。
なぜ、社会が必要なのですか?
たくさんの人が、幸せになるために社会を必要としているから。

つまり「俺に社会は必要ねえぜ」っていう人がいるなら、どうぞ万引きしてください、という話です。当然、「万引きはしちゃイカン」というルールがあるのだから、それを犯せば罰せられる。それは社会から外れた行為だから罰せられる。それでも構わないという奴がいたら、そら構わないでしょ。その代わり、全力で通報するけどね(笑)そして、牢獄にぶち込まれ、人権を剥奪され、職も失う。そりゃそうですね。人権も、職も、真っ当に生きる権利というものは、社会があって初めて与えられる者だから。そのために、皆ルールを守るのだし。

「自由には責任が伴う」

結局、究極的に言えばこの一言で全て片付くのかなと思います。
その"自由"を選択するなら、それに伴うリスク(責任)も受け入れましょう。

最近の若者が(って、僕もまだ26ですが・・・)認められないのは自由だけ選択して、そのリスクを受け入れないからでしょう。茶髪で何が悪い。深夜に出歩いて何が悪い。ネクタイしなくて何が悪い。いや、悪くないよ君達。でも、人は外見や行動で人を値踏みするもの。その人に気にいられようとしてないんだから「気に入れよお前」っていうのは無理がある。

で、人の幸福の話です。
結局ね、行き着くところは「自分が良ければそれでいいんじゃん」かと思うわけです。27年生きてきて。ホームレスの人も、フリーターの人もいる。そりゃ、軽蔑されますよ。税金払ってないんだもん(笑)フリーターの方は払っている人もいますが。まあ、そういう目で世の中から見られるわけです。でもね、本人が「別にそういう値踏みされたっていいよ」っていう人なら、この人は幸せなわけですよ。当り前ですが。

僕は、たぶん同年代の人間からすれば、いや、僕よりずっと年上の方からしても転職歴の多い人間です。まあ、僕のいた業界ではそんなにめずらしくもないんですが。この前の4ヶ月で辞めたのは異常だとしても、その前はそれぞれ3年と2年勤務してますから。もっと多い人はザラにいたし、派遣だと一年いたら長い方でしたしね。

ただ、それは僕の業界の話であって、その職歴だけ見たら「コロコロ変わってる奴だ」と思う人もいるし「おお、ちゃんとステップアップしとるなぁ」という人も当然いる。当然、それは受け取る側の自由であって、言っちゃえば僕の事を「いい奴」だと思う人もいれば「悪い奴」と思う人もいていいのと同じ事。

で、自分の幸福論を考えた時、これはどうなのかと。
それは、つまるところ「自分次第」なんですよね。
例えばAさんに「あいつ最低や」と思われても、僕がAさんにそう値踏みされることを気にしなければ、どうでもいい情報なわけです。それを決めるのは誰か?もちろん、自分ですねぇ。自分が「これでいい!」と思えばいいわけだから。そう考えると、人間っちゅうのは自由だなぁと思うわけです。

価値観も思想も、自分が幸せならそれでいいわけです。
自分の幸せには、当然他人の幸せも含まれてくる、ということもふまえて。
ということは、大事なのは「誰に認められたいか」ということをしっかりと選択することですよね。で、それは結局「自分にとって幸せとは何なのか」ということを明確に把握する事に繋がるわけなんですが。

例えば、今無職の僕は妹の旦那様のご家族にはさぞダメ人間に映るでしょう。そもそも同級生ですから(笑)「ウチの息子は結婚もして定職にもついてしっかりやってるのに、あの子はダメな子だ」なーんて値踏みをされるでしょう。気分の良いものではないです。でも、僕個人の幸福論として考えた時、義理の弟の両親(同時に同級生のご父母にあたるわけですが)の評価なんてどうでもいいんです。そんなもん、言わせておけばいい。僕には僕の幸せがあって、それを理解してくれない人もいる。それで構わない。でも、同じ言葉を僕の今の仲間にいわれたら、相当凹みますよ。人生の方向性を変えてしまうかもしれない。それぐらい重大なことです。

結局、気の持ちようなんだなと。
良い事も悪い事も起きます。人生ですから。
「犬も歩けば・・・」なんて言いますが、いや、仰るとおり。
棒に当たった事を軽傷だと思うか致命傷だと思うか。
もっと言うと、棒に当たってしまったその経路を失敗だと思うか、必要な道程だったと思うか。結局そういうことなのかなと。その道が無駄な道なら、棒に当たった事も無駄な傷でしょう。その道が幸せに続く道なら、棒に当たった事も試練として受け入れられるでしょう。

全ての人に受け入れられる事も無理だし、人生100点満点も無理。
あるべきは、自分の幸せの地を見つける事、ですね。

価値観なんて、所詮人のものであり自分だけのもの。
幸せに絶対はないわけで。

自分さえしっかり持っていれば、人生は上々です。

posted by 総さん−ソウサン− at 00:50| ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月13日

ポスト安倍じゃなくてポスト小泉では?

ポスト安倍ポスト安倍と叫んでいますが、結局「失敗だった」という結論に至るなら、そして指導力、リーダーシップ、発言力等を求める世論を聞くと結局、「第二の小泉」を求めているようにしか見えない。ポスト小泉と謳われた安倍さんがダメで、また他のポスト小泉を探しているという風に感じますねぇ。

世論ってのは怖いですねぇ。
就任時はあれだけ安倍さん、安倍さんって叫んでいたのに少し不祥事がおきるぐらいで、掌を返すように、こうなる。まあ、それは小泉さんの時も同じですけどね。あれだけ持てはやしたのに、就任してしばらくすると叩きだす。そして、辞めるとまたチヤホヤしだす(笑)マスコミに感化されたのもあるでしょうけど、むしろいとも簡単に感化されている人っていうのが大多数なのかなぁと思う。(僕はずっと小泉さん派で、就任前・中・後全て彼は素晴らしいリーダーだと思っています)


安倍さんに指導力がない?
強いリーダーシップがない?
強烈なメッセージ性がない?
そんなもん、就任前からわかっていたことでしょう(笑)
あの小奇麗なオッサンのどこにそんなものを見出していたのか、それの方が不思議です。

当然、僕は就任前から安倍さんは反対でした。
リーダーに必要な上記の資質が備わっていないから。
どの角度から見ても、麻生さんの方がリーダー向きだよなぁって。
どうみても、ブッシュと対等に渡り合えるような個性の持ち主には見えなかった。例えば何の前知識も無い人が見て、安倍さんと麻生さんが並んで話していたら、たぶん7割の人は麻生さんに向かって「総理!」と叫ぶ気がしてならない(笑)

それを踏まえて言えば、安倍さんはそれなりに頑張ったなぁと僕は思います。就任直後から海外へ飛んで友好を深め外交に貢献したり、肝炎問題にも精力的に動いたりと、局面局面ではそれなりに結果は残しているんですよね。大局で見ると、寂しい結果なのですが。

確かに、優柔不断だし、煮え切らないし、お坊ちゃん的な要素満載でいまいちピントがズレているような発言も見えますが、この人の場合そこは目をつぶって他をみるべき人材なのでは?と若造なりに思います。いや、だってそういう人じゃないですか(笑)見るからに。

安倍さんて、いい人なんですよね。
上司にしたら、こんなに過ごしやすい人もいないんじゃないかとすら思います。それが良いか悪いかは別ですけどね。で、いい人はいい人なりに頑張って、それなりの成果を出していたよなぁ、と思うんですね。でも、マスコミも世論も欠点ばかりを責めてそこに目を向けない。

小泉さんの時から思っていることですが、この国の人はトップの人間に多くを求めすぎ、同時に責任の全てを押し付けすぎじゃないかと思います。当然、僕も含めですが。小泉さんが総理に就任して支持率こそ高かったものの、後半はマスコミ含め叩きまくりでした。小泉さんが首相になって、この国は大きく変わったかと言うと、否ですよねぇ。でもね、それ小泉さんの責任にしていたら、変わらないですよ。むしろ僕は「あれだけの変人を持ってしても変わらなかった」なんて思います。人っ子一人変えたぐらいで、国が変わるわけが無い。それを受けて、国民が変わらないと。

今度は、福田さんですか。麻生さんじゃないんですか・・・(汗)
「誠実そうだから」っていう選択理由をよく耳にするのですが、リーダーに一番必要なモノって「誠実」なんですかねぇ。それだったら安倍さんでよかったじゃん、っていう(笑)誠実さがあるに越したことはないですが、もっと必要なモノがあるんじゃないかと思います。

リーダーって、僕は2タイプいると思うんですね。
一つは頭がキレて、オールマイティーにマネジメントが出来る「秀才型」
もう一つは、頭の回転も必要ですが、それ以上に強烈な個性で人を轢き付ける「天才型」

秀才型というのは、ある程度なんでもこなせるので融通が訊くのですが、しかし逆に言うと一人で何でもこなさなければならないので、あまりに巨大なプロジェクトには向かない。

天才型というのは、得てしてその政治力を補う作戦参謀がNo.2にいるものです。天才型リーダーの求心力で組織を生み出し、黒子となる作戦参謀がコントロールする。

秀才型は、天才型の脇で構えるNo.2にもなれますね。
芸人で言うと、天才型は松本人志や、明石家さんま。
秀才型は島田紳助や浜田雅功。
当然、両者とも明確に分かれるものではなく、各々二つの能力をある程度兼ね備えた方々だと思いますが。でもね、天才型は名司会にはあまり向かない。明石家さんまは確かに司会行もこなしますが、あの人は結局自分が輝く事を最優先に考えていますから(笑)そこへくると、島田紳助や浜ちゃんの司会業というのは、全くレベルの違うものですよね。彼らはちゃんとゲストの長所も存分に引き出す。(余談ですが、だからこそさんま紳助のトークは本当に面白い)

こう考えると、安倍さんというのは究極の秀才型、というより「究極のNO.2」だと僕は思うのですね。トップにいるより、NO.2として動いた方が才能が発揮されるような気がします。究極の天才型である小泉さんが生みだしてしまうネガティブな要素を、各所を回って笑顔で「すいません、すいません、悪気はないんです。改革は素晴らしいんです」って動いている安倍さん。これほど似合っている職もないのではないかと、僕なんかは思ってしまう(笑)

その人が、トップに立ってしまった。
しかも、国を動かすなんていう秀才型には向かないプロジェクト。
ある程度、不得手な部分は見逃してやればいいのに、なんて思うわけです。
そしてまた、この方の宿命なのかそういう星なのか、運が悪すぎる。
年金問題や、事務所費流用問題。別に安倍さんの政治によって起こったことではないですよね?安倍さんが総理の時に、明るみに出ただけ。そして、そのあおりで大臣自殺・・・。安倍さんがどうのこうのじゃなく、他の方が総理になったとしても、大問題になったでしょう。仮に小泉さんでも。ほんと、運が悪い。

確かに、このタイミングでの辞職は最悪です。
けれども、それに対して「お坊ちゃん総理」「精神力が無い」「器が足りない」では、何の解決にもならないし、何も生まれないでしょう。安倍晋三という人が、どうしてこうなってしまったのか。どういう心理状態でこの結論に至ってしまったのか。そこを考えないと。単なる個人の資質で結論を下してしまっては、何も解決しない。トップが替わるだけで終わる。

僕は、原因は国民性やマスコミにあると思っています。
再チャレンジと言いながら一切の失敗を許さない国民性(僕も含む)。
失敗の傷口をこれでもかと広げようとするマスコミ。
安倍さんが総理やるんだから。毅然とした態度とか、強いメッセージ性とか、そういうのは諦めなきゃ。その代わり、この人にはその人間性から出る求心力とか、対外性のやわらかさとか、そういう武器もあるのだから。

次の総理に求めるモノ。
当然、「天才型」です。
しかし同時に「天才型」を「天才型」と理解する国民の成熟度も必要だと思います。むしろ、そっちの方が大事かと。小泉さんの発言は、もう本当にリスキーですよ。でも、あの人の発言はたいていが合理主義。「ああ、まあそうだやね」っていう発言が多い。「最小限の犠牲で、最大限の成果を」なんてまさしくその象徴。確かに、デリカシーがないですよ。でも、現実をそのまま伝えたら、大抵はデリカシーがないもんです。デブにデブ、ハゲにハゲ。デリカシーのかけらもない。しかし時に、デブを変えるのはデブと発言する人だったりもする。「そのままでいいんだよ^^」って言ってる人は、癒しにはなれど、改革はできない。

つまりね、「デブにデブって、こいつまたデリカシーの無い事言ってるよ。あ、でもまあ、コイツの言ってることは間違いじゃないし、コイツはこういうリーダーなんだよね」っていう国民の懐の深さが必要だと、僕は思います。それがなきゃ、国なんて変わるわけない。

リーダーは腹黒でも変人を。
それ以前に、国民はリーダーの責任より、自分の責任を問いましょう。

僕も含め、ですよ。
posted by 総さん−ソウサン− at 23:48| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月06日

就活も楽しいもんだ。

まーだ仕事が決まりません。
このブログでしか僕の近況を知らない方は、意外がるかもしれませんね。
別に、就職活動を怠けていた訳ではないし、それなりに理由があってのことです。まあ、動けない状況がしばらく続いていた、ということですわ。

やっぱり、仕事が決まらないと毎日悶々とします。
人と会っている時はいいんだけど、一人の時間、一人でやることになると途端にテンションが下がる。先の事を考えてしまうからでしょう。「先立つもの」と言われるものが無いってのも大きいのですが(笑)

ただ、就職活動自体は楽しいです。
自分を査定されるわけですが、自分のやってきたこと、できることについては自分でもわかってるつもりですから、そんなにビビることもない。それより、人との出会いですね。これが多くて、本当に面白いしタメになる。

以前、某人材派遣会社のキャリアカウンセリングを受けてガッカリしたという日記を書きましたが、今回はその逆。「ああ、これこそカウンセリングだよなぁ」という人に出会えました。やっぱりちゃんとしているところは凄いですね。マナーや気配りも徹底しているし。

良い話なので名前出しちゃってもいいかな。
インテリジェンス株式会社DODA運営会社)
東京駅前、丸の内ビル27階。
行ってみてビックリ。超一流企業のようなキレイな受付カウンターに、しっかりとした対応。カウンセリング対応用のルームが50以上。ドリンクサーバー完備。まるで、大手弁護士事務所のようです。

リス株式会社しごとナビ運営会社)
ここは何が素晴らしいって、小さくても事業所が首都圏に無数にあることです(無数は言いすぎか)。僕の地元の湘南にもあって、チャリンコで行けてしまいます。これって大きい。という大きいという意識を会社側も僕ら人材側も持たなきゃいけないと思います。上記インテリジェンスの場合、東京駅ですから。東京駅近くにすんでいる人は稀で、そして人材紹介サービスを必要としていないでしょう(笑)。僕の場合、ほぼ往復2000円かかるのです。結構な金額ですね。それに耐えうるサービスを行っているかどうか。そういう目でシビアに判断するべきだと思います。

二社とも、肝心のカウンセリングについて言及していません。
それはこれから書くから(笑)
二社とも、良かったですよ。良かったんですけど、基本的には僕という媒体についてのカウンセリングだから、そんなに大きく変わるものでもない。だから、まとめてここで書きます(笑)

両社および両者とも、僕が前に受けたカウンセリングと決定的に違うのはカウンセラーが転職に関して圧倒的な知識を有し、且つ対応する相手の業界の知識も一定の水準を保っている事。つまり僕の場合はWEB業界ですね。僕の前職を見て、まずそこから反応が違いますし。「WEB業界のことは知ってます」といって、前職の企業を知らなかったら、それはウソになるような会社ですからね。

僕のこれまでのキャリア、これからのキャリア、最終的に目指すもの、今目指すべき事、僕のキャリアの弱点、長所。言わなくてもちゃんと答えてくれます(もしくは聞いてくれます)。これでこそ「カウンセリング」ですよね。どちらかと言うと、インテリジェンスの方がビジネスライクでキチっとした対応、リスの方が砕けた話を交えつつの人間味溢れる対応、ですかね。

また、これは人材紹介会社に限った事ではなく、他のサービスやはたまた応募先の企業にもいえることですが「良いな」「できるな」と感じるところは、レスポンスの早いところです。何かを依頼する、連絡をする、質問をする。その全てに対するレスポンスの早いところというのは、やはり素晴らしいなと思いますね。当然、上記二社も早いです。これはきっと、世の中全てのサービスや、もっと言ってしまえば対人関係にも言える事でしょうね。

と、いうことは、これは僕自身も気をつけなければならないということ。
これまでやってきたWEBディレクターという仕事は、一般のお仕事より、一段上のレベルでこれを求められる。今までだってそれは意識してやってきたつもりだけど、受ける側になってなお改めて思いました。気を引き締めていかないとね。

ってなわけで、就職活動はゆっくりですが、まあ順調っちゃあ順調なんだと思います。

あ、そうそう。
結構スカウトメールが来ます。
わけのわからんちんぷんかんぶんな職種も来ますが・・・。
ちゃんと、WEBディレクターとしてもスカウトメールが来るので、
これはこれで自信になりますね。

posted by 総さん−ソウサン− at 22:03| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月26日

高校の同窓生がいたのに気付かない。

ずっと書いてなかったのでまとめ書き。
一昨日友人達と飲みに行った居酒屋で、どうやら隣りの席に高校の同窓生の女の子達がいたそうなのですが、名前を聞いても全く分からず。あとでアルバムを引っ張り出してビックリするわけです。「確実に名前知ってたじゃんよ・・・」って。

僕は人の名前を覚えるのは早いです。
基本的に記憶力はいいのです。
なのに、覚えていない。

理由は明白。
興味が無かったからです。一時的に、ですね。
今の心理状態では、高校の同窓生までに気が回らないというか、もっとぶっちゃけるとそれ自体がどうでも良くなっていたんですね。興味がない事は頭に入ってこない。当然、記憶という引き出しの利便性も著しく下がる。

まあ、僕は高校時代なんてほんと超が着くほどの無名人だったのでw、覚えていた所で何も変わらないし、声をかけたって相手は絶対にわからないという、僕にしては珍しいとてつもなく大きいネガティブな自信があったのも大きいのでしょうが(笑)いや、それでも僕は人の名前や顔は覚えている方だということが言いたいわけで、つまりその程度のつながりから発生する記憶は心理状態に大きく左右されるということでしょう。

何が言いたいかというと、人の情報量というのは、その人がその対象に持つ興味という名の「意欲」が大きく関わってくるんだということです。同じ物を見たり感じたりしても、それを受ける人が興味を持ってそれに接していないと、見逃す情報も多くなる。「気付き」に最も大事なのは「興味を持つこと」なんですよね。

ここ最近、僕は本当にサービスや商品に対する目が厳しくなったように思います。それで機嫌が悪くなる事もあるし(笑)でも、逆に良いなあと感じる事も増えた。そういう目で相手を見ているからだと思います。何も考えないで無頓着に過ごしていたら見逃す。事実、以前の僕は見逃していたと思うし。

今、この時だからこそ色んなものを見たい、読みたい。
色んなものに興味を持つこと。
「気付き」に一番大事なことを、今はもっともっと意識するべき時なのかなと思います。

まだまだ若造ですから。
posted by 総さん−ソウサン− at 18:13| ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

冷静さを捨てることも時には必要なんだけど。

ここ最近、なんだか良くないことが続きます。
特にこの一週間で起きた事は本当に辛くて、凹まされます。
まあ、自業自得なんですけども。

人が死んだとかいう話ではないので、大した事ではないといえば大したことではないのですが、日常というものをベースに考えれば大した事ですね。気が滅入るのも、凹むのもある意味当然で、元気だったらそれの方が不思議なのですが、それでもやっぱり辛いものは辛い。

気分があがったり、あがろうとすると現実を突きつけられて凹んだり、小さな波の躁鬱状態です。小さな波っていう所が何とも僕らしい。大きく凹んで体調を崩す事も無ければ、自らを見失う事も無い。自分のことを信じる姿勢も失わない。食事だって普通に摂っているし、TVを見れば笑いもする。でも、元気いっぱいにもならない。

これだから僕は「ドライ」なんて言われてしまうんでしょう。
実際ドライな部分もあるのですが。
そういう自分を見るに付け、こういう時は我を忘れて塞ぎ込んだ方が人間として可愛げがあるなぁ、なんてつくづく思う。可愛くないですよ、こんな時まで冷静でいるというのは。どこかで、人間味溢れる人に対する嫉妬というものが僕には存在しますね。

けれども、いつでもどんな事態でも冷静さを保つ、という僕のスタイルはそれはそれで今まで人生に大いに役立ってきた訳で、特にディレクターという仕事や、仲間を集める時、大きなイベントを仕切る時には必要不可欠だったとすら思う僕の個性なのだから、今さらそれに呆れても仕方がない。なんて、それ自体がまた可愛くない分析だなと思ったり。

でもま、やれることを精一杯。
これが僕の基本スタンス。
どうせ出来ない事は出来ないんだから。
今あるゆったりとした時間を使って、大いに凹んで、大いに羽を伸ばすことが、きっと次のステップに繋がると思います。

とりあえず、まず自分の進路を決定しなきゃ。
posted by 総さん−ソウサン− at 17:54| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月25日

解約させないという手法。

ス〇パーを解約しようと思っても、WEB上ではできないんですね。
で、その上カスタマーセンターへも中々繋がらないというね・・・。
契約変更はWEB上で出来るのに、解約はできないというのも不思議な話ですね。

同じような話を〇ahooBBでも聞きます。
〇ahooBBはもっとタチが悪くて、解約すると言ってるのにそのまま電話越しで問題解決を訴えて契約延長へ引っ張ろうとするとか。そういえばソ〇ットを昔解約しようとした時も、WEB上でいくつもの引止め工作がありましたねぇ。

こういうのって、ほんとに顧客が見えてない手法だなと思います。
だって、ユーザは解約する事を求めているのだから(笑)
どこかで一枚「お困りの事はこういうことではありませんか?」というお情け頂戴のタイミングはあっても良いとは思いますが、あの手この手で解約させないようにするなんて、サービスというものを勘違いしているとしか思えませんね。少しでも契約者を確保したいのだろうけど、そんな対応されたらユーザは「二度とこんな所と契約しない」なんて思って、むしろ逆効果だと思います。

解約されたくないのなら、力の入れ所が違うんですよね。
サービスを商品とする契約って恋愛みたいなもので、数あるサービスの中からユーザは「ここがいいね!」と選んでくるわけです。それを「あの手この手で解約を阻む」というのは、言ってみれば別れの宣告をされそうになって(もしくはされて)悪あがきをするようなもんです。連絡を受け付けなかったり、話を聞かなかったり、もう終わりにしたいと言ってるのに無駄に話を延ばしたり。そこで頑張っても、時すでに遅し、なんですよね。大事なのは、そこにいかに至らせないサービスを日々実施するかであって、愛想をつかされてから頑張っても見苦しいだけ。凄く簡単な事なのになんでわからないんでしょうか。

きっと、目先の数字ばかりに目がいってるんでしょうね。
中には、引越しや住宅環境からプロバイダを変える人だっているだろうに、サービスさえ良かったらまた環境が変わった時に選んで貰えるかもしれないのに、わざわざそういう機会を損失するような行為だと思います。

ユーザに対してどんなサービスを提供するのか。
これがはっきりしていないといけないわけですが、つまるところそれは「自社にとって、ビジネスターゲットは誰なのか」をしっかりと分析し把握する事なんですよね。
posted by 総さん−ソウサン− at 21:02| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月10日

あれでキャリアカウンセリング?。

先日、派遣の登録に行ってきました。

最近の転職系サイトは、職業斡旋に留まらず、転職の方向性やプランに対するアドバイスも行ってくれるんですね。俗にキャリアカウンセリングと呼ばれますが。

派遣と同時にキャリアカウンセリングにもオンライン登録をしたので、その先日の派遣登録の際に合わせてキャリアカウンセリングも受けてきました。カウンセリングというぐらいだから、僕のキャリアや将来展望に対して何かしらのアドバイスや指導をしてくれるのかと思い、少し楽しみにしていたのですが、カウンセリングとは名ばかりの職業紹介でした。

僕より確実に若いオネーチャンが出て来て「こんなお仕事があります」なんて、あれでよく「キャリアカウンセリング」なんて言えますよね。笑わせてくれるなぁって思いましたよ。カウンセリングなのに始めからやることが決まってるってどういうことだよ(笑) 時には、仕事を奨めずに別の方向性を探らせる場合もあるわけだし、そこを考えて提供するのがあなたたちカウンセリングの仕事でしょうが。仕事紹介だけならWeb見ればわかるんだよね。あれなら、今日話をうかがって来た師匠のほうがよっぽどキャリアカウンセリングだったよ(笑)


でも、この話実はWeb業界もあまり他人の事をとやかく言える状態じゃないんですよね。

「Webコンサルティング」なんてうたっている制作会社が「SEO対策できます!」「アクセシビリティ配慮なら我社へ!」「CMS導入できます!」とか堂々と言っちゃってますからね。それは手法の話であってコンサルティングではない。「検索エンジン上位できます!」なんてのは、上位表示のお手伝いであって、根本的な解決になってないわけです。

コンサルティングとは、それらの手法を駆使して「いかに問題を解決するか」という「戦略」のことを指し、そこをいかに提供するかでしょう。


コンサルティングやカウンセリングなんて、そう易々と出来る事じゃないんですよね。相手を上回る知識と経験は絶対になきゃならないし、その上でコミュニケーション能力、プレゼン能力、プロジェクトマネジメント能力が必要とされる。最近大学を出たようなオネーチャンにできるわけがない。

この国のラベリング偏重価値観がもたらした、間違ったブランドの成れの果てですね。


僕は、そうならないように気をつけたいものです。
posted by 総さん−ソウサン− at 16:33| ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

突然の訃報。

訃報なんて、大抵は突然ですけどね。
それにしても、ショックです。

僕の古い友人が先月亡くなったそうです。
ずっと連絡をとっていなかったので「友人」と呼ぶ権利が僕にあるのかどうか、凄く迷うところですが、少なくとも幼少時代、幼稚園から小学生までは頻繁に遊んでいた友達の一人だったので、僕にとっては友人です。

ご本人の妹さんから聞きました。
mixiって凄いですね。「兄の友達を探していたら行き着いた」って。
まあ、学校コミュニティの管理人をやっているので、比較的同級生には見つけやすいんですけども。

すごいのは、妹さんは誰かに伝えたかったらしく、それは別に僕に狙いを定めて来たわけではないということ。その中で、去年中学の同窓会幹事を担い、今も仲間を引き連れて遊んでいる僕のところへ来たというのは、自分で言うのもなんですが、良い偶然だなぁと感じます。彼が、何かのおぼし召しで僕のところへ連れてきたんでしょうか。今日という日といい、そう感じずにはいられません。


本当に切ない。
僕の幼少の思い出には必ず彼は存在するし、今、時間をともにしている仲間の中にも、同じように彼は存在すると思う。同じ環境で同じ時間を過ごし、同じように家へ帰る。そういえば「通学路よりこっちの方が早い」と、子供心にちょっとドキドキする、そんな裏道を初めて教えてくれたのは彼だった。

先月、僕は何をしていた。
毎日、厳しい環境に苛まれながらも一生懸命仕事をこなしていた。
そんな時、彼は亡くなった。
僕は、何をしていたのだろう。
僕は、露ほども知らなかった。
僕に何かできなかったのだろうか。

人間の悪い癖ですね。
僕に何かできたわけがない。
そんなものは、ただの僕の自己満足に過ぎない。
同じように、これから先の未来について「僕に何かできることはないだろうか」というのもまた、同じこと。ただの自己満足でしかない。亡くなってしまった後に何をしても、故人は戻ってこないのだから。結局、自分の力を過信した、自分の存在意義を主張したいだけの、ただのエゴに過ぎない。



最近になって思うことがある。
よく言われる「自分の居場所は自分で作るもの」というのは、まったく真理だと思う。けれどそれが全てだと思ってしまうと、それはエゴでしかなくなるのだと、最近は痛感させられる。自分の居場所は自分で創造するものだけれど、自分の居場所を形成しているのは、自分ではなく周りにいる人達だと。確かに、自分の立ち振る舞いや言動、もしくは持っている技術によって自分の居場所というのは創造されていく。けれどそれは間接でしかなくて、その居場所を形成しているのは、周りの人間。周りの人間が「君は、こういう人なんだね」と理解をし、評価してくれるから自分の居場所がそこに生まれる。

自分の生命を維持するために、水分を確保しようとする。水分を蓄えるものといえば、例えばコップ。コップは確かに人がつくるものだが、結局のところ命に必要な水を蓄えているのは、自分ではなくてコップだ。水を蓄える為の「器」を人が作ったに過ぎないわけで。だから、人間がいくら万能になろうとも、その「器」そのものを乱暴に扱ってしまっては、何もなしえる事はできない。

僕の居場所は、僕の行動や人間性を受けた仲間が作ってくれている。彼らが存在するからこそ、そして理解してくれるからこそ、そこに僕の居場所が出来る。自分ひとりで出来ている訳ではない。と同時に、僕も他の誰かを受け入れ、好意を抱き、そこにその人の「居場所」が存在する。彼がそこにいてくれるのは、僕がそこに彼を映し出す「居場所」の一つを、僕の体内に形成しているからだろう。

そう考えると、先月亡くなってしまった僕の友人の「居場所」は、少なくともそのカケラは僕の体内に存在する。彼とともに同じ時間を過ごし、一緒に走り回ったその時間は、多くの大人のそれと同じように、僕という人間の礎になっているし、彼もまたそうだったろうと思う。彼の「居場所」の一つを僕は持っていたと思うし、久し振りに出会えばまた同じように、やあ、なんて言って彼を受け入れただろう。それは、今も存在する立派な彼の居場所だったと思うし、そして僕の心や思い出に存在するその彼のための器は、誰にも消す事の出来ない、彼がこの世に存在していた証だと僕は信じて疑わない。


大人になってからは一度も会っていない。
今、子供の頃と変わらず笑いながら盃を交わす仲間と同じように、彼とも今の話、ガキの頃の話、これからの話をしたかった。そう思えることが、そういう想いを抱ける事が僕は幸せだと思うし、それが叶わなくなってしまったことに心を痛めることこそが、人間の価値だと僕は思う。


彼のためだなんていうつもりはさらさらない。
彼がこの世に、ここに存在したという証明の一つが僕の中に存在する。
その証明に向き合い涙できることが、僕の、そして彼の財産だと思う。

いつも笑いあうことばかりが人間の価値ではないさ。
彼が遺した彼の居場所。それを自分の中で感じられる事を大切にして、
ポッカリ空いた心を受け入れようと思う。
彼に感謝の意を込めて。

心より、ご冥福をお祈りいたします。
posted by 総さん−ソウサン− at 00:20| ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月06日

酒井友之がヴィッセル神戸へ移籍。

たまには大真面目にサッカーの話でも。
酒井友之という選手をどれほどの人たちが知っているだろうか。
「サッカー好きです」という人の5割は知らないと思います。
「サッカー"が"好きです」という人の5割もまた知らないかも??
日本代表にキャーキャー言って、日本代表以外のサッカーを知らないミーハ−な人は知らないでしょう。逆にJリーグのファンなら知っている人はかなりいると思う。


思えば、どうも華が無い選手だった。
運動量も豊富で、技術も確か。パスセンスも悪くはないし、ドリブルが全くできないわけではない。そして、守備力はかなり高いものを持っていた。いや、持っている。今だってレッズで試合に出た時はいつも良い動きをしている(らしい)。豊富な運動量に正確な技術を持ち、そして何よりもすぐれた戦術眼。中盤の掃除屋は十八番だし、繋ぎ役もできる。ロングパスも下手じゃない。

しかし、言われてみればみるほど、華が無い。
華が無いというのは、何も中村俊輔や小野伸二のようになれということではない。たとえば、中澤にも阿部にも鈴木啓太にも華はある。別に技術がどう、ということではないのだと思う。うまいし、汚れ役もできるし、手を抜かない。計算の立つ選手。僕が監督なら、間違いなく欲しがると思う。欲しがるだろうけど、では手元に小野と長谷部と鈴木啓太と阿部がいたら?ベンチに置くだろうと思う。そのうちの二人をベンチから外したとしても、たぶん酒井はベンチに置きたくなる。しかし、スタメンではない。何かが、足りない気がする。それが何なのかと問われると難しいところなのだけど。

考えるに「節目節目での大活躍」が無いのかもしれない。
苦しい予選で眼のさめるようなパスさばきを見た記憶も、獅子奮迅の働きで中盤を引き締めるような活躍を見た記憶もない。いつも「しっかりと着実に」というイメージしかない。時に、それが数多の監督の信頼を勝ちえ、同時にチームの「小さく正確な歯車」以上の評価を得られなかった原因かもしれない。

つまり、彼がチームに欠かせない選手となり、チームの安定に絶対的な力を発揮するような活躍が必要なのだと思う。エドガー・ダービッツ、ドゥンガ、山口素弘のように。そういう意味で言えば、ヴィッセルは悪い選択ではないと思う。純マーカスも加入し、ボッティも遠藤兄もいる。そう簡単ではないだろうが、しかしこのまま老け込むような歳でもない。是非、活躍して欲しい。活躍とはもちろん「監督の計算の立つ」程度ではなく「ヴィッセルの中盤は酒井でもっている」と言われるほどに。ポテンシャルから言えば決して不可能ではないはず。

こういうことを言うとファンには失礼かもしれないが、この10数年サッカーを見続けて来た僕の目が確かなモノだとするなら、酒井の運動量と守備力は決して啓太に大きく見劣りするものでもないし、そして啓太よりずっと確かな技術を持っていると思う。

左腕に腕章が似合うぐらいの活躍、して欲しいよ。
posted by 総さん−ソウサン− at 23:55| ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月03日

ふわふわりの平日。

どうも、毎日そわそわしますね(笑)
やっぱり、未来が何も決まっていない、収入源がないというのは何か落ち着きません。社会人としては正常なんでしょうけどね。

とりあえず、このままどの道に進むとしても、短期の仕事でも、夢に向かう長期の仕事にしても食いブチを見つけにゃあ生きていけないので、派遣に登録したり就職情報誌を見たりしています。これはこれで結構楽しい(笑)そして、毎日の穏やかなこと。特にWeb業界に入ってからは忙しさに追われ毎日を走り抜けてきた気がします。気づけば、常にトップギアで走っていたような。何かしらの責任にプレッシャーを感じていたり。それがモチベーションだったりもするのですが。

けれど、ふと社会の流れから外れてみると、穏やかですね。
新宿にいても横浜にいても湘南にいても、毎日を組織の歯車として過ごしている人が大半の中で、すれ違う人すれ違う人、これまでの自分を見ているようです。いつかはそこに、戻らなきゃいけないんですけどね。その中に紛れ込むと、自分だけ社会に取り残されたような、ふと、そんな孤独感を感じます。同時に、今は走らなくてもいいんだなという安堵感も感じられる。

いつも絶対に見られないようなTVを見て、絶対にでかけられないような時間に外をブラブラする。いつも飲めないような時間に呑んで、いつも寝られないような時間に寝る。ブログ以外の文章を書きたい。遠出をしてみたい。昼間に銭湯でもいくか。そうだ、前から気になっていた湘南の朝市に行ってみたい気もする。仕事や夢以外に、自分には結構やりたいことがあったんだなぁと、新たな自分を見つけたり。

仕事、探さなきゃいけない。
将来を考えることも必要。
でも、僕はもう26歳。
仕事探しながら遊べるくらいじゃないと、
26歳としてはダメかなと思います。

というわけで、ともかくいろんなモンを感じて、
いろんなくだらないことをやりたいと思います。

くだらないこと、大真面目にやるのって大人には難しいので。
とりあえず皆、遊びましょう。
posted by 総さん−ソウサン− at 14:31| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人材という名の力。

今もって、無職になってしまったのに後悔がないのは、結局僕が一番大事だと考えているものが、あまりにも合致しなかったことなんだなぁと、いまさら気づいています。

人と人との繋がり。
僕が一番大事だと考えるものです。
それが、とても薄い。だから、「教育」という概念がない。
そういう会社でした。

「育てよう」ではなく「育たないやつは知らん」というスタンスというか。
前のコメントにも書いたけど「OJT」と「丸投げ」の違い。
僕は新卒からアウトプットは違えど、ずっと制作系の職についてきたので、基本的にOJTで力をつけてきました。だからこそ、違和感を感じるのですね。僕だって後輩や新人を抱えたことはザラにあります。そのときにまず考えるのは「どうやって仕事を叩き込もう?」です。で、その手段がOJTとなるわけですが、いきなりはじめから終わりまでやらせるということはないですね。仕事を細かく切って「とりあえずここまでやってごらん」と言う。で、当然あがってきたものは使い物にならない。使い物にならないことは予測できるのだから、修正も含めて時間を取り、ダメなことを指摘し、時に甘ったれていると思うときは叱った時もあります。それでも、最悪の事態にはならない。そりゃ、そうならないようにコントロールしているから。全ては「こいつをなんとか一人前にしよう」という目的から。

その、目的がないのですね。先日までいた会社には。
だから、仕事を丸投げして、出来ていないと罵声を浴びせる。
はじめから完璧を求めているから、ある意味当然の反応なのですが。
そして、コントロールしようという意識が低いので、修正に対する完全な指示を出さない。意見だけ。それが複数人同時に。対等な立場の上司が口を出すのです。=まとまらない(笑)
で、それでもいただいた意見をもとに一生懸命考えて修正をする。しかし、意見は所詮意見なので、同じことの繰り返し。その上二度目には「なんで一人で考えるんだよ!」と怒鳴られる。逐一報告しようと心がけると「何にも考えてねえのかよ!!」と怒鳴られる(笑)こうなると、もう何が正しいのかわからなくなる。何をやっても起こられるという意識が植え付けられ、病気になる人があらわれる。病気にならずとも、「プロジェクトが終わっても何かを成し遂げた達成感はないよ。怒られたまま終わるだけだから。苦痛を切り抜けたという休息感があるだけ」という先輩も何人かいましたね(笑)つまり「育もう」という意識が薄いから、話に一貫性がなくなるんだと思います。

たとえ話があるとわかりやすいかも。
東京にいる子供に「新大阪へ向かう」というタスクがあったとします。
僕ならまず、電車の乗り方も知らない子には「とりあえず、新大阪までの切符を買ってきて」と言います。戻ってきた子供がぜんぜん違う切符を買っていたら、「お前、これ違うだろ。新大阪を買わなきゃ。新大阪、何で行くか考えた?考えてないよな?」というところから話を始めます。
しかし、その会社は「新大阪に来い!」としか言わないのですね。
で、何もわからない子供はなんとか切符を買って電車に乗るのですが、それが新幹線じゃなく東海道線だったりするわけです。そうすると「お前何考えてんだ!?バカじゃねえのか?!」と、怒鳴る。そして、「新幹線の方がいいだろ」としか言わない。子供は、次は一生懸命考えて、周りを見渡して、時刻表の存在を知り、新幹線の種類を知り、切符の買い方を知って、やっと新幹線に乗れる。しかし、当然時間がかかる。そうすると「お前遅すぎだろ!何やってんだよ!そんなの、調べりゃ簡単にわかるだろうが!わからないんだったら聞けよ!」とまた怒鳴る。学習した子供は、逐一相談するようになる。すると、また「お前なあ、そんなこともわかんねえのかよ!そんなもん、聞かなくても調べられるだろ!!!」と怒鳴られる。


結果。
「何が正しいかわからなくなる」


最悪、これでも「新大阪への行き方」は覚えます。
しかし、ではこの子供はずっとこの大人に着いていこうと思うでしょうか?まあ、思わないですよね。苦痛しか与えられないのだから。「新大阪への行き方」を覚えたら、その大人に用はなくなる。当然、その知識を得たらもっと理解ある大人のところへ行くでしょうね。

僕のように、それを見越して「新大阪への行き方」にすら興味を抱かなくなった人間はスパっと決断しますが、その知識に興味のある人もいるわけで、残る人ももちろんいます。でもね、結局みんなやめていくのです。だから、あの会社のディレクターには1年ちょっとの職歴しか持たないディレクターだらけだったのですね。あとは管理職のみ。

これって、大問題だと思います。
特に、僕らWeb屋は。
別の大手制作会社の人事担当者が言ってました。

「我々Web屋の一番の財産は人材なんです」

おっしゃるとおり。メーカーと違って、Web屋は会社自体にナレッジはないんです。工場とか、独自の技術とかいらないでしょう?そもそも、形のないものを作って売っているのですから。必要なのはPC環境ぐらいで、そんなもんは誰にでも集められる。Web屋の財産は、現場の人間の体内にあるのです。知識や、コミュニケーション能力や、発想力とか、さまざま。考えてモノを生み出す仕事だから、ルーチンワークでもない。新しい人が来てパッとできるわけではないんです。いくつもの案件をこなすことにより力を蓄え、それをまた次の案件に活かす。そして、また新しいものが生まれる。会社の組織力を使って蓄えた力=人が外に流出したらどうでしょう?大きな大きな損失です。その人にいったい会社はいくらかけてきたと思ってるんですかと。

媚びるというと言葉は悪いかもしれない。
けれども「気に入ってもらうよう行動する」ということは、大事だと僕は思いますけどね。
posted by 総さん−ソウサン− at 02:05| ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月01日

無職になりました。

社会人になってから初です。
いつも、転職する時は次が決まってから辞めていたので。

にしても、早かった(笑)
朝、意思を伝えたらその日付けで退職ですから・・・。
動きの早さには感服しますね。

後悔はないです。
ある種の喪失感がないといえば嘘になりますが、逆に言えばネガティブな要素はそれしかない。Webの第一線を離れてしまうわけで、それには多少の寂しさはありますが、同時にやはり自分にはそのWebの第一線に魅力を感じなくなっているのもまた実感としてあるわけで。ただただ会社が嫌で辞めたわけではない、ということです。

やっていることは悪くない会社で、基本的にはとても仕事のできる会社でしたけど、いかんせん社内環境が悪すぎました。ともかく、ちゃんと教えない。右も左もわからない人間に丸投げして、ふたを開けてみたらまったく検討違いの所に来ていて、それに対して聞いたこともないような汚い言葉で侮辱して激怒する。うつ病になる人もたくさん。忙しすぎて、たたかれすぎて体調を崩して高熱を出し、オフィス内で倒れて、打ち所が悪かったらしく今杖をついて歩いている人までいる会社ですから。仕事のやり方と同じなんですよね。考え方が合わない人に歩み寄る気というのがまったくない。会社を好きになってもらおうなんて気さらっさらない。人と人とのつながりというのが、弱い会社でしたね。僕が一番違和感を覚えたのはそこだったりしたし。

僕のディレクターとして最も大事にしている言葉は「ディレクターの資質はいかに味方をつくれるかで決まる」ですから。真逆ですね。

次、ですか。
当然、働かにゃ生きていけないし、夢もあるので職探しはします。九月一日社会復帰を目標に探そうかなと思っています。ありがたいお話もあり、それも含めて今後の人生、自分のやりたいこと、今しかできないことを見つめる時間にしたいですね。

あと、短期バイトとかしたいです(笑)
バイトってもうぜんぜんやってないですから。
PCを使ったデータ入力とか、資料作成とかそういうバイトないかな〜。Officeなんてバリバリ使えるので、オーバースキルでバイトがしてみたい(笑)オッサンだらけの事務所とかで「もう、終わりましたけど」「ああ、これはこういう風に使ったほうがいいですよ」みたいな(笑)

というわけで、基本的に平日暇です。
のんびり暮らしたいと思います。
posted by 総さん−ソウサン− at 18:05| ☔| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月30日

僕はどうしよう。

この一週間ぐらい、少し悩んでます。
自分の進退に。仕事ね。

びっくりするほど、人がやめていきます。同期で18人入って、もう6〜7人は辞めました。やめたのは同期だけではなく、僕が入社する少し前に入った人達も辞めていきます。一年に満たないで辞めていくなんてザラ。

僕の隣の隣に済む同期も、辞めることを考えているみたい。この人は二つ年上で、あの人材サービスやフリーペーパーで有名な会社から来た人。「やり方があわなすぎる」「意味がわからな過ぎて苦痛しかない」という彼の言い分は全く異論がない。同じ中途組で、しかも早くからビシバシ鍛えられるポジションに置かれ境遇も同じなのです。
僕と彼の違いは、前職の経験ぐらいでしょうか。僕は同じ業界にいましたから。

いま、僕を引き止めているのは、Web業界に轟くその名前の大きさと、あまりに短い期間でやめてしまっては、次に続かないという二点だけです。それ以外に、この会社に魅力を感じなくなっている。

この先、僕も追い込まれて、わけわからないのに怒鳴られまくるんだろう。今だって、わけわからん仕事任されるし、丸投げで辛い。

夢もかなり頭に出来て来て、その上でいまここにいる意味ってなんだろうって思いだしました。怒鳴られて、追い込まれて、平日は何も出来ない

この会社に入ってから、ほぼ一度も大好きなサッカーをしていません。ジムにも通えない、球蹴りもできない、満足にサッカーも見れない、友達との予定も組めない。そこまでやって、その先に何かあるのかな?
「とりあえず一年」ということそのものの意味。

最近僕は毎日のようにそれを考えています。

どうするべきか。
誰にもわかんないことですけどね。
posted by 総さん−ソウサン− at 08:49| ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月26日

ああアジアカップ。

久しぶりに、立て続けに代表戦を観ました。
この仕事やってるとまず見れないですから・・・。
とくにHOMEなんてたいてい平日でまず見れない。


昨日、残念でしたねぇ・・・。
すんごいショックでした。
なんだかんだ、勝つと思ってましたから。戦績で言えばサウジは相性の良い相手ですからね。95年?のサウジ二連戦から、負けた試合をほとんど見てませんでしたし。
ただまあ、アジア三連覇や四大会優勝など、失ったものは大きいですが、そんなに落ち込むこともないのかなと。一敗はただの一敗ですから。トーナメントでは充分に有り得ること。決めきれないのも今に始まったことではないし、一対一が弱いのも同じ。

方向として間違ったほうに向かっているとは思わないし、アジアカップが最終目標でもない。チームを熟成させつつ、結果も狙いにいったという観点から見れば、ベスト4は合格点だと思います。時の運もあるし。
トルシエ、ジーコ時代に比べたら遥かにレベルの高い安定した試合をしていると思いますね。常に力を発揮するという意味で。

トルシエ時代、選手は自己で考える権利を与えられず、歯車に徹することを強いられた。事実は、その中でも個性を出せということだったんですが、あまりの独裁にそれを出せる選手は限られ、オートマティズムによる連動性こそが強みだった。日本代表は限られた「自由と規律を操れる」指揮者により、抜群のバランスを獲得。史上最強の強さでアジアを征したが、世界に出たとき、あまりに少なかった指揮者のタスクを担える人材をとうとう失い、バランスではなくオートマティズムのみで戦うことになった。それなりの結果を残したが、機械の選手達にはそれ以上はのぞめなかった。


ジーコは、まるで突然に考える権利を与えるかわりに、施策は全く与えなかった。全て自分達で考えろと。道標を失った日本代表は、時折発揮するクリティカルな連動と、「動かないこと」による組織固めというアベレージを武器に戦った。結果、高度な守備組織に動かないことによる牙城をもって攻撃を跳ね返し、カウンターをもってなんとか得点するスタイルで、アジアをなんとか征した。当然、アジアでのみ通用する戦い方は世界では役に立たず、クリティカルを狙った世界では、一つの施策も手に持たない選手達のアドリブだけに頼り、当然のごとく散りさった。

オシムは、全体の哲学と局所の施策、そしてそれらを「ツール」として自己で考えることを求めた。完全な機械組織でもなければ無策のアドリブ要求でもない、個の武器に組織大砲と二つの武器の使い方を与える。選手達は組織連動のベースに個の武器を加えたスタイルを身につけようとしている。

さて、今はどうか。
間違いなく、ジーコジャパンより走り、チャンスを作り、そして間違いなくトルシエジャパンより応用が効いている。考えるようにもなったし、足を動かすようにもなった。たしかにまだ、個の力を上乗せするレベルには至っていない。今はまだ走ることとバランスを維持することに頭が向いて、個の力を発揮する意識を持つに至っていない。が、これは仕方ないでしょう。今それが出来ていたら、それは完成に近いのだから。


この9年間の流れを見ていれば、間違いなく良いほうに向かっている。まだ本番じゃない。これからでしょう。


そう考えれば、完全なオートマティズムもない中で、よく繋げて、よく連動していると思う。あの劣悪な環境で。はっきり言ってサッカーをやる環境じゃない。その中で、よく動いている。あれで動かない、足元ばかりだと言う人は、一度真夏のフルコートでサッカーをやってみるといい(笑) すぐに動けなくなるから。

97年のアジア最終予選オマーン戦。これほどボールは支配出来なかったし、もっともっと足がとまっていた。

2004年のアジアカップ。
劇的な勝利は見ていてとても楽しかったが、やっているサッカーはこの上なくつまらなく、未来のないサッカーだった。アジア相手に完全リトリートでセットプレイとカウンター頼みなんて、世界で戦うつもりがないのと同じ。

ちゃんと、考え出した。
ちゃんと、走り出した。
個の精度、仕掛け、試合運び。
これから付け加えるものでしょう。

日本サッカーは着実に進化していると思いますよ。
少なくとも三年前のチームよりは。
posted by 総さん−ソウサン− at 22:31| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月25日

三秒後の変身。−セミナー講師の巻−

またしても憂鬱です。
企画書は思ったほど叩かれませんでした。
まだこれからPowerPoint化するところなので、修羅場はまだまだやってきますが・・・。しかし、それに加えてまた新しいお仕事が。


セミナーの講師をやれと言われました。
といっても、ただ人前に立って話すだけではありません。話す内容まで、新しく自分で考えなさいと。普通なら誰しもが考えると思いますが、僕の教育のためではありません。単純に、そのセミナーの内容が会社として初めての切り口のもので、前例がないから。無いから、そりゃ新しく作らなきゃならんと。しかも、全く意図がわからないのが「事例を交えた内容にしろ」とのこと。僕、まだこの会社来て四ヶ月ですよ(笑) 当然事例なんか知らないし、メインディレクターとして案件を持ったこともない。そんな輩に、会社の一つの顔となるセミナーの講師を、しかも今までとは違う切り口の新しい内容でやらせるとは、何か矛盾しているような・・・。ちなみに、事例は自分で聞いて集めろということです。この会社の厳しさをわかっていただけるでしょうか(笑) 僕に任せた理由は「前職の経験があるから」だそうです。そんだけ?・・・と(笑)

辛いのは、人前で喋ることでも、内容を組み立てることでもないです。企画書と同じ。社内チェックが度々入るのです・・・。骨子を作って、部内役員チェック。そして資料が完成したら、部内全員に向けてレビュー。部内の人間が全員集まって、僕のプレゼンや内容をボロクソに言う会です(笑)。で、部内を通れば次は全社レビュー。そうです。我社の誇るWeb業界のカリスマ、あの社長に対してプレゼンをしなければならないのです。しかも、一つの企画の話ではなくWeb論ですから、釈迦に説法とはまさしくこのことですよ。

Web論の素晴らしさもさることながら、プレゼン力の凄まじさは他に類をみない才能です。「ヒアリングに来ました」と言って喋りまくって帰って来ちゃう人ですから。こちらの不備と思われる事態に、クライアントに頭を下げてもらうために訪問したのに「だからあなたたちはダメなんだ」と2時間説教をして帰ってくる社長なんて、聞いたことがない(笑)当然、2時間後のクライアントは全員納得しているのですよ。


そんな人の前でプレゼンです。
どんな大きな箱でプレゼンをやるよりもプレッシャーですよ。しかも、僕はこの手の練習とかレビューが大嫌いなのです。理由は簡単。「自分よりそれを知っている人に、力いっぱい説明するのが恥ずかしすぎる」からです。オシムに「サッカーとは・・・」なんて話すようなものですから。なので、今までは練習が必要な時は敢えて何も知らない人を集めてやってました。


ただまあ、未だかつてない程のピンチですが、つまりそれは極大なチャンスなんですよね。社長や役員に直でアピールする場ができるわけですから。先日も書きましたが、チャンスが与えられたことを喜び、楽しんで取り組みたいと思います。


でも、やっぱり簡単には無理です。極大なプレッシャーがかかる大ピンチに違いはありませんから。「楽しみを見出だすために、逃げ道をつくる」と以前に書きましたが、実はもう一つ、いつも行っているメンタルコントロール術があります。
何かのプレゼン、司会、面接。実力を出し切るために知識や技能より、何よりも心の強さを求められるとき、僕は自分にこう唱えます。




目を閉じ、胸に手をあてて三秒間深呼吸をする。

スイッチを切り替えろ。
失敗を恐れるな。
必ずできる。
やってみせる。
怖さは克服できる。

「ゆっくりと瞼をあげた後の僕は、スーパーマンだ」


三秒間のファイティング・スイッチ。
posted by 総さん−ソウサン− at 21:27| 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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