当時から、僕はずっとこのことを考えています。
そして、実は自分の中での答えは3年ぐらい前から変わってない。
その答えをあまり信じたくなくて、僕の中で眠らせていたのであまり公言はしてない。
ちょっと、それを書いてみようかなと。
このニュースを耳にしたとき、正直ドキっとした。
自分でも明確な答えを即答できなかったから。
人を殺したいと思ったことなんて今まで.1秒たりともない。
無いのに、明確な答えが出てこない。
僕だって、いつか子供を持ちたい。
どうあがいても、僕の血をひいた子だ。
絶対にひねくれているに違いない(笑)
この質問をされる可能性は大いにある。
その時、自信を持って答えられる親でありたい。
僕はそう思う。なぜなら、僕の父さんに対する信頼の目も、学歴もあり知識人の父さんが、子供の頃から好奇心旺盛である僕の質問に、常に淀みなく答えてくれたことで養われていったから。信頼とは物理的な力だけではないと思う。
この問いに対する答えを模索する時に、ある番組でテリー伊藤が大声で怒鳴っていたのを覚えている(まあ、あの人はいつも大声だが)。
「そんなものねぇっ、質問させること自体おかしいんですよ!問答無用で叩き込まなきゃいけないんですよ!人は殺したらいけないっていうことを、理屈抜きで叩き込まなきゃいけないんですよ!」
なんて短絡的な思考の人だと思った。
これだけは絶対に言ってはいけないことだと僕は思うよ。
むしろ、今の世の中考えもせず当たり前のことを当たり前に受け入れる人が多すぎると僕は思う。子供だって、そんなもの気づいているさ。人を殺してはいけないなんて。少なくとも大多数の子供はね。いくらなんでもそんなにバカじゃない。それでも、気になる。それは、大人が子供に物を教えるときに必ず理由をつけるから。そう、人は、そしてより大人は"そこ"に理由がなければ動かない。ルールには意味がある。背景があり理由がある。
当たり前だとわかっていても、その背景を知りたがりルールの意味を問うことがなぜいけないのだろうか。
いけないことはわかった。けれどそれはなぜだめなんだろう?
これは当然の感情でしょう。
むしろ、当たり前の事を当たり前に受け入れず、自分の中で噛み砕いてからより深く理解したいと思った故の質問ならば、これはとても良いことだとすら僕は思う。それを「ルールはルールなんだ!」と押し付けるのは大人のエゴであり、そして「社会のしくみを子供に教える」という大人の義務を怠った怠慢だと思う。
また、ある人が「綺麗な心を持っていれば、人を殺したりしないし、そんなことに疑問を覚えないよね?」と言われた時は、虫唾が走るほど嫌気がさしたね。なんて夢見がちで、理想論的な、現実味のない視野のせまい考えだろうと思ったものだ。
人はなぜ人を殺してはいけないのか。
これを考える時、いくつもの文献やネットを漁ったけれども、少なくとも「明確な理由」として述べられたものに、皮肉にも「明確な理由」は無かった。どれも、問題の挿げ替えだったり、前提を覆すものだったりと、回りくどい印象がぬぐえない。
結局、それらを経て僕がたどり着いた結論は「そんなものは存在しない」。
人が死ねば悲しむから?
本人が殺されたく無いと思っているから?
そんなもの、社会のつくりに過ぎない。
これらの「理由」というものは、突き詰めていけば一つの同じ思想にたどり着く。
「共存していかなければいけないから」
社会の当然のルール。
だからこそ社会には常識もあるしルールもある。
人に迷惑をかけるようなことをしてはならない。
それは、お互いが共存するため。
社会、そして国家というものはものすごく簡単に言えば「皆で一緒に集まって生きれば幸せになれるよね」っていう集合体だと僕は思っています。だから、いろんな仕事があって、いろんな役回りがあって、成り立つ。皆が幸せになるために全ては運用されている。そして、その幸せの絶対的共通項として「なるべく長生きすること」があるんじゃないだろうか。
そうすると、ある意味答えは簡単。
むやみに人を殺してはいけないのは「自分が幸せになりたいから」だ。
自分や、自分の大切な人を殺されたくないなら、当たり前に赤の他人も殺してはいけない。
そう、だからそういう風に答えを紡ぐのであれば、もうこれが絶対的な答え。
でも、これは「人」ではなく人と人の間に生きる「人間=社会」という単位での考え方だと僕は思うわけですね。だから、社会において「人間は人間を殺してはならない」という理由は割りと簡単に出る。
問題はここからだ。
ではもし。もし「私は殺されても構わないし、もともと大事な人も家族もいない。だからアイツを殺す」という人がいたとき、彼にどうやってそれがいけないことだと説明するのか。彼は社会の一員であることも、国家の一員である国民であることも放棄するという。そんな人にどうやって説明するのか。
これは、無理だなと思うわけです。
これだけだと、まるで上記の人が殺人鬼のイカれた人みたいだけど、たとえば天涯孤独の身の男性に、唯一の愛する女性が出来たとして、その女性が誰かに殺されたとする。彼を止めるような絶対的な説明というのは、存在しないんじゃないかなと思う。悲しいけれども。
考えて見れば、この国に人を殺してはいけないという法律が完全に整備されたのなんてたかだか300年も無いんじゃないでしょうか。人を殺してはいけないのなら、なぜ歴史の授業であれだけ織田信長を奉るのだろう。鉄砲隊なんてぶっそうな人殺しのシステムを編み出して、天下をとった男を、なぜ。彼が現代に生まれて同じ事をしたら、大量殺人の指導者として世間から排除されていたに違いない(まあ、彼が現代に生まれたとしても、人を殺さずにもっと別の方法をとると思うけど)。では、なぜいまなおヒトラーはあれだけ批判されるのか。
きっと多くの人はこう答えるんじゃないだろうか。
「そういう時代だったのだ」と。
結局、これがそこに絶対的な理由が無いことを証明しているのではないだろうか。
たかだか時代が違っただけで崩れてしまうような答えしか存在しないということさ。
僕は、自分も周りの人も失いたくないから、人殺しなんてしてはいけないと思う。
そこまでしか、僕には答えられない。
しかしむやみやたらに殺人を犯せば自分も殺されるし、自分の大事な人も殺される。それについて言及が出来なくなる。だからこそ「人を殺したいと思ったことなんて今まで.1秒たりともない」ということで。他者を殺す事は自分を殺す事に等しく、自分の大事な人を殺したいと思った事は無い、ということですね。
ちなみに、このエントリでは「人を殺してはいけない理由」について書いてるのであって、「人を殺さない理由」について書いているのではないですよ。
なので、絶対にやってはいけない事ではないでしょう。
上記の事柄とはあまり関係ないですが、失礼ながら全体の文章を通して、考え方が稚拙(視点が狭いというか?)な気がします。
上のことをいろいろ考えた結果、「質問すること自体おかしい」というのに対して、言ってはいけないというのは、賛成です。ただ二つのことを言っている文章に対して否定したら、どっちも否定したってことですよね?
人はなぜ人を殺してはならないのか、という問い自体には「他者危害の原則」が絡んでいますね。上記文章中にも一部あります。ただこれは、現在の学校教育とかみ合わない部分があります。なぜそんな問いをするのか?という疑問には、このことが関係あるのでしょう。興味があったら、「子ども若者、学校教育」を絡ませて考えてみてください。
でもその論理だと、他人を殺すメリットの方がデメリットより大きい場合、殺人を抑止できないのではないでしょうか?
というか、メリットの方が大きいのに他人を殺さないのは、非合理的です。
殺人が露見する心配はあっても、それが十分小さく(または、ばれても懲役刑程度で済む確信があり)、殺人によって大金なりなんなり手に入るなら、別に殺していいじゃん。という考えもできてしまうというか。
世の中みんながそんなことを考えだしたら物騒になるので、世間の治安を維持して自分の生活を守るためにも殺人はやめましょう。
…という考え方もできますが、治安悪化のデメリットと比較して、メリットが大きいなら、やはり殺人は起こってしまいます。
そして、理屈だけで殺人を否定する根拠が示せないなら、「理屈抜きで叩き込む」作業も有効になるでしょう。
「なんだか良く分からんが殺人はダメ」という幻想のような価値観が共有されている間だけ殺人を抑止できるなら、その幻想を破壊するような行為は社会を危険にさらすことになります。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを立てること自体に拒否反応が出てくるんではないかと思います。
本当は理詰めで殺人を禁止できるのが一番だとは思いますけど、実際のところ万人が納得できるような論理ってあるものなんですかね?
一応一個一個お返事していきます。
(それが一番良いのかどうか、は正直迷っている所ですが)
>nasiさん
僕が視点が狭いかどうかっていうのは、まあそれは置いておきます(コメントしようないですから)。
『理屈抜きで叩き込む』ですが、僕もそれは否定はしませんよ。むしろ、僕だって始めは子供にそう教育すると思います。意識的より、無意識下にその事項を置いた方が絶対的遵守事項として埋め込まれると思うし。僕がテリー伊藤を短絡的だと言ったのは、「質問をしてきた子供や、それに対応しようとする大人に対して”質問することすらダメだ”」という論理についてですね。それは絶対に僕は間違いだと思いますから。
>直人さん
ちょっと、僕の読解力が低いからなのかわからない部分があります。すみません・・・。
「質問すること自体おかしい」とは僕は絶対に思いませんね。それは記事にも書いてますが。それでは「問題」に対するアプローチの方法を限定すると思いますから。世の中全ての事に疑問をもつのは当然であるし、間違った事では無いと思いますよ。疑問を持たずに信じる事もまた、素敵なことですけどね。
>きゃんさん
では、法律を守る理由は?っていうことですね。法律の存在こそ、社会ではないでしょうか。だから、記事にも書きましたが「社会において、人間は人間を殺してはいけない」というのは絶対的真理だと思いますよ。
>ななしさん( 2005年11月06日 00:39の方)
とりあえず、適当でも良いからHNをつけてくださると助かります(笑)
ちょっと、僕の書いていることを伝え切れていないような気がします。殺人のメリットとデメリットですが、この国で人を殺して、メリットを受けるという意味では、現実から言うとメリットの方が大きい事もありうるかもしれません。ただ、僕が言っているのはその法律や今の環境に基いた現実論ではなくて、社会において人を殺さないのは共存の為。共存の利益(メリット)を捨て、殺人のメリットを選択するということは、懲役云々ではなくて、国、仲間、他人、地球上全ての人間にいつ殺されても文句は言えない状況になる、ということですね。
だから、殺人を抑止できないというのは、記事中にも書いてますが、「俺は、最愛の娘を国に殺された。仲間を殺されようが、国に命を狙われようが、隣人に殺されようが、国に勤めるアイツを殺す」と言った時、本人を"法律により"殺す以外(この場合「社会に危険を及ぼす因子」でしょうか)抑止するものが無いということですね。極悪なテロリストは殺されたり、死刑になるのは当然というのは、このへんからくるのではないかと、僕個人では思っていたりしますね。ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが。
結局、倫理や宗教なんてものは一つの価値観であって絶対的なモノではないし、法律だって「共存」のために集団が作ったルールにしか過ぎない。絶対的に「人は人を殺してはならない」という理由は存在しないと思いますよ。種のレベルまでいっちゃいますけどねこれは。
こ、これは「子供に殺人の悪性を教え込む方法」でしょうか・・・?
そういう意味なら、賛成です。僕も似たようなプロセスを踏むと思いますよ。自分の子供なら「大事な人を殺されたくないだろう?」で聞かないあまのじゃくがでてきたら「わかった。じゃあ俺はお前を殺すよ。俺も死ぬ。」と言って子供に「やばい・・・この人本気だ・・・」って思わせるところまで真剣にやると思います(笑)
自殺できる人間なら人を殺すことができます。
僕が人を殺さないのは殺されたくないからです。
「何故人を殺してはいけないかわからない」と言った学生の番組僕は見ていました。
僕だったらこう言いたいな。殺していいという法律になったらどうなるか想像してごらんと。
この2つは似て非なるものです。
真理は恒久的に変わらないもの、常識は明日にでもひっくり返ってしまうもの。
殺人がいけないことなのは常識で、今の社会では悪ですが、戦争で敵を殺せば英雄です。
そんな感じで「社会のルール」ってところと絡めていけばなんとか説明できるんじゃないでしょうか?
真理の例えは思いつきませんでした。
別に揚げ足を取るつもりはありませんけど今より暮らしやすい世の中になるような気がします。お互いに対してもう少し考えられるようになるでしょう。法律で決められているから殺さないというほど人間は最低じゃないです。もちろん色々と問題はあると思いますがそれほどまずいことにはならないと思います。
自分が思うに「人を殺していけないかどうか」というのは「はい」「いいえ」で答えられるようなものではなく「場合及び立場による」ものなんだと思います。
たとえば人を苦しめて殺すことが好きで幸せに生きている人を不幸にしたいと考えている人がいた場合、社会のために殺しておいた方がいいでしょう。しかしそれはあくまで社会の安定を重視した立場の話で、殺人鬼のことを大切にしている親などがいた場合また違った結論になるでしょう。
こういった場合、法律で裁く以外の道はないような気がします。
自分が子供に人を殺しがいけないかどうかを教える場合はまず子供がどんな世界に生きたいと思うかを問います。そうしてそれを実現するにはどういった決まりごとが必要なのかを一緒に考えます。そうすれば人殺しがどれほど非効率でデメリットが大きいものなのかがわかるんじゃないかと。人殺しに限らずどんな事柄に対しても頭ごなしに「それは悪だ」と決め付けるような大人にはなって欲しくないですから。
人間が人間を殺せば周囲に憎しみと言うものが生まれその憎しみから人を殺せば無限ループ。
別に殺しあっても何時かは終るから滅ばないか。
…人間は感情の生き物だ!
「してはいけない」という(既に価値観を含んだ)概念は所詮倫理上のものなので、根本的なことを考えるには事実からはじめたいものだと思いました。
どうでしょうね。
予想以上の反応があって、嬉しい限りです。
皆様熱いコメントありがとうございます。
ブログ開設者としては、何よりもまずそのことに感謝したいと思います。
>木島愁人さん
「殺していいという法律になったらどうなるか想像してごらん」
僕も、アプローチとしてはこれが一番適切かなと思います。良い投げかけですね。シュミレーションでも構わないから、敢えてこの再現VTRかドラマかなんかを、教育の一環として作ってくれないかなぁ、と思います。
>三輪さん
真理と常識。
とてもわかりやすいカテゴライズですね。納得です。
>真理の例えは思いつきませんでした。
むー。そうですねぇ。難しいですねぇ。日常の殺人が悪だというのは常識だが、人は必ずいつか死ぬというのは真理である。ってとこですかね。難しいなあこれは。
>そんな感じで「社会のルール」ってところと絡めていけばなんとか説明できるんじゃないでしょうか?
これは、要するに文中でも書きましたが「社会におけると銘打てば答えは簡単に出る」だと思っていますね僕は。
>横やりさん
「別に揚げ足を取るつもりはありませんけど今より暮らしやすい世の中になるような気がします。お互いに対してもう少し考えられるようになるでしょう。法律で決められているから殺さないというほど人間は最低じゃないです。」
ん〜どうでしょうね。僕もどちらかというと殺人禁止の法律がなくなれば社会は崩れると思います。人には価値観があって、守るものがあって、そして時に盲目にもなります。客観的な視野を常に持つというのは完璧には無理ですね。人は相手を愛し、敬う美しい感情を持っていますが、それは裏を返せば「排他的」になる要素を持っているということです。それほど、危うい種族だからこそ、統一ルールが必要なんじゃないかなと、思います。
>猫さま
自分と相手と第3者と・・・いろんな価値観があるからルールが必要という論理は賛成です。というより、ルールの必要性について非常わかりやすく、僕も使いたくなりますね(笑)
「よほど暇な人で無い限り、そんなことは考えないので子供に答えられないというのは大した問題ではない」とのことですが、僕はこれはあんまり賛成できません。
確かに、このテーマに対して「そんなものは存在しない」以外には誰も明確な答えは持ち合わせていないのかもしれません。けれど、対子供というだけでなく「その絶対的な解答を見つけること」以上に「それについて考えること」が、大事ではないかと思います。日々の悩みに忙殺されるのは致し方ありませんが、その中で、ほんの少しでもこのような議題を自分なりに考えることが、「生きる」ということについて大事な要素になりうると僕個人は考えています。
また理論や言葉では説明しきれないことは世の中山ほどありますが、それ故に「説明できなくても良い」と停止してしまうのは、僕はあまり良いとは思いません。依然として自らを表現する最大のツールが「言葉」である以上、完璧には無理でも出来る限りそれができるように努力すべきだと、僕は思っています。
「答えはないかもしれない。けれど、私の考えではとりあえずこう思う所までは進んだ」という各々の価値観を発達させることが大事かと。
> 名無しさん
感情で生きるからこそ、危ういのですよね。だから、その感情を悪い方向のエネルギー源として存在させないために、人は共存のためのルールをつくるのかもしれません。
>kineさん
今現在「人はなぜ人を殺してはならないのか」という問いに対する答えが「そんなものは無い」というものだったとするなら、本質もまた然りでしょうね。ただ、このエントリはまずそこの真偽を計るところから始めています。「人は人を殺してはならない理由は存在するのか否か」ですね。
「なぜ人を殺してはけないと大勢が思い込んでいるのか」は、その次の問いになると僕は考えています。
>僕も、アプローチとしてはこれが一番適切かなと思います。良い投げかけですね。
>シュミレーションでも構わないから、敢えてこの再現VTRかドラマかなんかを、
>教育の一環として作ってくれないかなぁ、と思います。
それこそバトルロワイヤルじゃんw
っていうか確かそういうコンセプトの元に作られた映画だったよな、確か。
結局は想像力の問題であって、それがはぐくまれていない、あるいは完全に間違ったベクトルで想像力が育ってしまっている今の日本はかなり問題だと思われ。
題材としてはそうだけど、そういうことじゃなくて。娯楽としての要素を入れていたら、間違った方向に行く力も生み出してしまうと思うし。完全に「教育」というコンセプトの元に対象を子供としたものですね。
教育というコンセプトの元に作られたもので、今まで感銘を受けたものって、あります?
また、今まで受けてきた「知識を教えられるものではない授業(例えば道徳や倫理)」を記憶してますか?
それが自分の生き方に反映されてますか?
教師っていう存在の機能ってのは、そもそも間違った方向のベクトルを修正するためにあるはずで、
それが機能していないからこそ、今の教育問題ってのがあるわけだと思います。
だから、教育というコンセプトの元に、とかそういうことが重要なんじゃなくて、
それを見た生徒さんたちが何を考えて、何を感じたか。それを把握して、間違っているものを諭すべきなのが教師なり親の役目。
教科書をただ読むよりも数百倍も難しいよ。でもそれが「先生」の本懐だと思う。
反面教師っていう言葉もしかり。
「人のふり見て我がふり直せ」ってのは、至言だよ。
ってことで、そこに娯楽性があるかどうかなんてのは関係ないし、むしろ子供が興味を示す分だけいいじゃないかな。
バトルロワイヤル見て「ヤッベーオレもこの島行ってクソヤロウどもを皆殺しにしたいw」って思うやつもいるだろうけど、
それが間違っていることを説くのがまさにこのエントリで語られていることだと思いますが。
僕が「シュミレーションでも構わないから、敢えてこの再現VTRかドラマかなんかを、教育の一環として作ってくれないかなぁ」という物に対して「バトルロワイヤルではそれは足りえない」というのは、あれは命を題材にした、確かにこのテーマに沿ったコンテンツであるけれども、物を教える「ツール」に適していないから、ということ。
お金を払って、映画館に行って「娯楽」として成り立つことを第一にして作られたスタイルのものでは、世に対する問題提起にはなれど、教育には向かないと僕は思うのですよ。まあ「これを見て感想文を書いてください」なんていうスタイルでやれば使えないことはないだろうけど、かなり難しいものがあると思う。
あれをみてどう思うかというのは本当に物凄く大事で、それこそ子供には自分で考えさせ、大人は教え込まなければいけないのだけれど、もっと「教育」として扱いやすい、今の教育の現状にも耐えうる「ツール」としての題材があった方が良いということ。「バトルロワイヤル」じゃまだまだ風当たりが強すぎるだろうし、そもそもR指定ですから。
反戦を教えるのには「プライベートライアン」や「パールハーバー」(日本の戦争映画が思いつかなかったwローレライ?)ではなくて、それ相応のドキュメンタリーの方が適していると思うわけで。別に「ホタルの墓」で反戦について子供に問うのも問題ではないとは思いますけどね。
なかなか難しいですけどね。金が無きゃクォリティの高い物は作れないし。だから感銘を受けるものもきっと生まれにくいとも思うし。
ただ、逆に言えば無駄に税金使ってないで国はもっとそういう事に金を使って「教育の姿勢」というものを子供にも大人にも示した方が良いんじゃないの〜?なんて思ってます。
つまりはツール作りよりも大事なものがあるんじゃないの?ってことです。カネをかけるのなら、モノではなくて人に、でしょう。
例えば、今の日本の大人の大半は「ビルマの竪琴」の感想を書いているし、「オキナワ」「ヒロシマ」「ナガサキ」といった戦禍の塊みたいなところに修学旅行とかで行っているハズ。そこで人の尊厳というものを踏みにじられた方々の話を聞き(まぁ多くの場合億劫に感じられるものですが・・・)、その悲惨さを伝えられているにも関わらず、犯罪は一向になくならない。
結局はそれを学習機会として演出しきれていないからだと思います。で、それらを活用しきれていない状況では、どんなにハイレベルなものを作ってもムダかなーと。
すいません話の方向が大分ずれてきたので「教師の修正」が必要ですねw
失礼しました m(_ _)m
まぁヒトゴロシを理解できるのは人を殺したことのある人間だけだと思いますが・・・
あ、子供達に刑務所を訪問させる、なんてのも一つの解になり得るかもしれないですね(笑)それが本質的であるかどうかはモチロン別にして、ね。
>さて、まぁオレが言いたいのは「バトルロワイヤルでいいじゃん」ってことではないのはよーく理解されていると思うので省略w
あ、そうなのね。
「それこそバトルロワイヤルじゃんw」っていうのは、「既にそれあるじゃないの」っていう意味かと思ってたんだが、「それ自体がそこまで有用では無いんではないの」ってことね。
あくまで、一つのツールであるから、それを使う人ありきで、その有用性というのも変わってくるね。
もちろん、当たり前に教師の方の意識改革というか、そのもののコンテンツが上がらなければ全て無駄なのだけれど、それを促すためにも「より使いやすいツール」が必要だと思うのね。それなしに、教師や親ばかりに目が行くのはどうも危険だな〜と。
「道具もそれを使う人ももっとクォリティをあげなければいけない」っていうことですやね。
底辺の先生方のボトムアップを期待するべきなんだろうけど、それを促すためにトップダウンとして一つの形をもう少し示すべきではと、思う。
もっともっと簡単に言うと、
「このテーマや情操教育について、ちんたらやってないでもっと力いれんとアカンよお国様」ですね。
>子供達に刑務所を訪問させる
いいかも。
でも、どうなんだろう。
やっぱり風当たりが強そうだ。
一教師の判断や学校単位でその判断をさせて、リスクを負わせるのはさすがに酷だと思うのよね。だから、国なり県なりの教育をつかさどる大きな組織が「一つの方向性」をもっと示して欲しいと思ったり。その一つの解が上の「ツール」なわけで。
・・・・・
親になるのは大変そうだな〜w
”どうして〜ほうがいいのか”なら幾ら議論の余地がある。
ごっちゃにするから混乱するのでは?
後者としては自分は
まだ人の命より大切なものが見つかっていないからと結論した。
「そもそも”人を〜ならない”という文句は常識で、とかルールで、とかいうのが頭に隠れてる。」というのは、エントリでも書いている通り、賛成です。
僕がどうしてこの問いを自らに投げかけたかと言えば、それは「世論」として「ルール以上のものがある」と無意識に認識している節があると、思っているからです。僕もそうでしたしね。
だから、今の世の認識が「ごっちゃ」になっているからこそ、この問いに対して考えるべきではないかなと思ったわけです。
いえいえ、お気になさらず・・・。
むしろ、真摯だなんて言われるとこちらも恐縮です。
また、題材が題材ですし、これまでにコメントをいただいた方も含め、多少熱くなるのはしかたないと思っています。と、いうより、このテーマに関して、たくさんの方が高いモチベーションで反応してくれたことが、その答えがどうであれ、僕にとってはとても嬉しい限りです。
でもその「許されない殺人」が許されない理由は何故かと聞かれると・・・・・・
「殺し合わずに生きていられる時は、そうした方が利益になる」という事でしょうか。
少なくとも、脊椎動物の場合は、進化の度合いが増すごとに、共食いする事が減ってきているはずですし。
ゲーム理論の例もありますし。
でも「死ぬ事よりも生きる事の方が何故良いのか」と聞かれると・・・・・・
「絶対に殺人をしてはいけない理由」が見つかったら、話は簡単なんですけどね。
動物が共食い等の「同属殺し」を行う場合、彼らに知性は無いので生物として本能が種の存続の為にそうさせるのでしょう。
しかし、人間は優れた知性を本能の他に持っています。そのため、本能とは関係の無い、個人の理性だけで同属を殺せてしまいます。
ゆえに、いつの間にか「優先すべきルール」として無意識に認識しているのではないかと。
ただ、個人的にそれを社会や教育に絡めて理由を考えようとは思いません。
「殺してはいけない理由」を明確に決めることは、「殺しても良い条件」も同時に決めてしまうことでもあると思うからです。
だから、答えを出さないことも一つの答えでは無いでしょうか。
以上、長文乱文失礼しました。
コメントありがとうございます。
>ヒルネスキーさん
「許される殺人」と「許されない殺人」ですか。これは、だいぶ個人の価値観にゆだねられる部分もあるし、法律により定められている部分もありますね。
なるほどこれこそが「人が人を殺してはいけない理由など無い」ということを最も象徴しているかもしれませんね。人間が共存のために線引きをしたということですから。
>みーさん
「種の保存」という観点から見れば、答えはもうそのまんまですね。ただ、それは「殺さない理由」かなとも思いますね。
いや、だからこそ「種の保存」に基づき無意識に「いけない」と思い込んでいる、ということか。なるほど。これはこれで面白いですね。
>「殺してはいけない理由」を明確に決めることは、「殺しても良い条件」も同時に決めてしまうこと。
これには正直、ドキっとしてしまいました。確かにそうですね。だから、むしろそんな条件も無いし、逆に言えば「法律」という条件を人は作ったのでしょうね。
いまさらですが、コメントさせて下さい。
人が誰かを殺す時、色んな事を考えると思います。
多分一番に考えるのは、もし立場が逆で自分が殺されるならという事。
次に、相手を失う事で得られるメリットとデメリット、これは法律で罰せられるという事ではなくて、共同体が1人の協力者を失うことのデメリットです。
メリットは、相手が害する、もしくは害されてしまった対象を守る事。
自分の命、財産、生きる価値を生んでくれる愛する人、単に平和、これを守ったり、これ以上失われない事。
人が相手を殺す時、これらを天秤にかけると思います。
これは言い方は悪いけどゲームであり、より利得を得られる方を選択するだけだと思います。
ただ、自分も相手のように殺されるという事を自ら実証した後も平安に暮らすのは大変困難でしょうし、今後の人生の平安を失う覚悟で相手を殺すには相当のメリットが必要です。
それが平和なこの国ではあまり多くない、ということだと思います。
「私は殺されても構わないし、もともと大事な人も家族もいない。だからアイツを殺す」という人は、自分の人生に価値を感じていないし、失うデメリットが元々少ないのだから、得られるメリットが少なくても釣り合います。
こういう人は憎いという理由だけで殺すでしょう。
彼に殺さない方がいいと説得するためには、新しいルール、新しいメリットを与えるしかないと思います。
彼が生きる事に価値を与えてやる事、彼という協力者を必要とする仲間になってやる事でしか、殺人を踏みとどまらせる事は出来ないと思います。
第三者としての僕自身が、彼が生きる理由になってあげる覚悟があればいいと思いますが、これは僕自身の今後の人生を犠牲にすることです。
誰かを救うためには誰かが犠牲にならないといけない、そこまでしても救う価値がある命なのか、今度は僕自身がこの問題を突きつけられています。
身も知らない誰かが誰かを殺したというニュースを聞く時、誰もが自分自身にこの問題を突きつけられたと感じます。
その時、情報の不足から結論は出ないし、出たとしてもその覚悟の持って行き所はありません。
こういう違和感から逃げるために、人は法律で殺人を禁止し、タブーにしたんではないでしょうか。
出ない結論や手持ち無沙汰な覚悟を抱えて平安に生きるのは難しいですから。
メリット・デメリット論を基本にお話を展開なされていますが、概ね仰る通りだと思います。結局、人っていうのは基本はそこなんでしょうね。
でも、だからこそ最近は思うのです。
人は、一度はこのテーマについて深く考えるべきなんじゃないかって。それが、どんな結論になろうとも、その考えるという行為自体が必要なんじゃないかなと。そういう機会、命について考える機会を失っているから、殺人や自殺が多発するんだと、僕は思っています。
皆が、「命を捨ててはいけない」と考えるからこそ、今の平和は保たれている。逆に言うと、ちょっとしたことでそれが崩れてしまえば簡単に今の平和は失われると思うのです。
そもそも人を殺してはならないというのを規律と考えると、それを形成しているのは社会ということになります。ですから殺しても良い時代というのもあったわけです。それはそういう社会だったからです。
では現在の社会で殺してはならないという規律が基本となっているのはなぜでしょう?そこには経済も深く絡んでいるのですが、要はお金です。もっと言えば税金です。税金を納めるのは誰でしょう?民間人です。では税金を操るのは誰でしょう?役人です。法律に影響力を持つのは誰でしょう?役人です。では税金を納める民間人を数的に維持する根本的な法律とは何でしょう?即ち、殺人はあかんよってことです。
倫理さえも知らない内に経済に影響されているんですよね。経済とは目に見えない巨大な怪物なんですよ。おわり
そんなこと、決まってない!です。
つまりその いけない!論はある人の哲学であり、それを当然と受け止め思い込んだ中からの質問です。
宗教や哲学の恐ろしさはここにあります。
人を絶対的思想と信じこませ、苦しませるからです。
また、人を思考停止状態にします。
私は当初「共食いになり、それは自然界にはないことだから」と考えていました。
しかし自然界には、共食いは存在していることに気がつきました。
では、絶対に自然界にないことは、わが子殺しと、近親相姦なのです。
つまりこれさえ行わなければ、OKなのではないかと考えています。
ただ、ちょっと動物より脳が発達している点から考えると、その脳を使って種の持続を鑑みるに、
本能だけよりもう少し理性をもって種の保存に貢献すべく生きるには
我が子だけではなく、
親戚の子、はたまた隣のうちの子、地域の子、日本の子供、世界の子供と自分の力量に合わせて保護することではないかと思うのです。
よって、それを阻止する大人から守る為には殺しもあり、法律も社会的弱者保護を原則につくらています。
大人同士なら平等が原則、
”人殺しはいけない”
これは確かに正しい理です。
理由は簡単、”大衆は常に正しい”。
多数の人間が、これに同意している現状で、殺人を行えばそれ双方のリスクを伴うことになります。ですがそれは、社会にとってただの”異質”と捉えられ、はじき出されることが、暗黙の了解。
まぁ最終的に残るのは、個人の感情ですか。
人間の数だけ”理由”が存在する。
価値観の違いでそれが”善”と”悪”にもなりうる。例として、殺人者を死刑にすることが”善”として捉えられていますしね。
私は”常に大衆は正しい”これを人間社会の理と考えており、殺人にも適用されると思っています。ですが、殺人を肯定したのではないことを、ご理解ください。
以上
最近TVで問題のキレる高校生真っ盛り☆
16歳女子高生の意見です。
賛否両論の声があると思いますが、若者の戯言と思って軽く受け流してくださいまし。
”人殺しはいけない”
これは確かに正しい理です。
理由は簡単、”大衆は常に正しい”。
多数の人間が、これに同意している現状で、殺人を行えばそれ相応のリスクを伴うことになります。ですがそれは、社会にとってただの”異質”と捉えられ、はじき出されることが、暗黙の了解。
まぁ最終的に残るのは、個人の感情ですか。
人間の数だけ”理由”が存在する。
価値観の違いでそれが”善”と”悪”にもなりうる。例として、殺人者を死刑にすることが”善”として捉えられていますしね。
私は”常に大衆は正しい”これを人間社会の理と考えており、殺人にも適用されると思っています。ですが、殺人を肯定したのではないことを、ご理解ください。
以上
最近TVで問題のキレる高校生真っ盛り☆
16歳女子高生の意見です。
賛否両論の声があると思いますが、若者の戯言と思って軽く受け流してくださいまし。
大切な人がいるんだったら分かりそうな気もするけど、不思議。
さて、一番重要な事は"何故自分は人を殺さないのか"です。
法律を作った人は、戦争を体験した人です。
"人殺しのある世の中"と、"人殺しの無い世の中"、両方を体験した人が理由はどうあれ前者を選んだのです。
あなたは自分の子供には、どちらの世を歩んで欲しいですか?
人は親の作った社会を生き、自分の作った社会を子供に歩ませます。
"今"や"自分"だけを考えても答えは出ないでしょう。
世の中は簡単で単純なことの積み重ねでできています。
子供が暴力を"知った"時点で、
"暴力が蔓延するような世の中には生きて欲しくないこと"
"親で在る自分がそのような世の中が嫌な理由"
"そして愛しているから幸せに生きて欲しい"
と子供に伝える。
自分も親から愛を伝えられ、おじいちゃんとおばあちゃんもまたその親から愛を伝えられて生きているんだと教える。
"今"と言うのは、過去の人たちが良い世の中を作ろうとした"結果"なのです。
さて、質問をした子供は、愛を知る術がない子供だったのでしょうか?
天外孤独で、誰にも愛を教わることができないような子供だったのでしょうか?
私は、過去の人から、未来の人へ、その間を受け継ぎ、伝えて行くのが人間なのだと思います。
ちなみに蛇足ではありますが、
赤い色も、青い色も同じ色である。
あなたは色を見ると悲しくなりますか?嬉しくなりますか?
このような論議は、不毛かと思われます。
人が人として、最低限の幸せ(保障)のもとに生きられるようになった今、何を受け継ぎ何を伝えられる(残せる)のでしょうかね。
子供の時にこのことを考えたことがある方は
そう多くないのではないかと思います。
自分の場合 自分を取り巻く環境が
人を殺したいと思わせるような環境でありました。厳密にいえばイジメです。
「誰を恨めばいいの?」「何をどうすればいいの?」
幼心にそれは強く残っていました。
そして、次第にそれはエスカレートして
「誰を殺せばいいの?」「誰を消せば私はいじめから逃れられるの?」という質問を抱きました。
いまでこそ、その感情は影をひそめています。 ですが私は現状を打破するために
人を殺すことは社会的には悪であっても、個人的な意見では善だと思います。
社会的抹殺なんて、現実的に無理ですし、
一市民の私には社会と戦うなんて大仰なことはできません。
殺すことが罪な社会はいつか行き詰るんじゃないかとわたしは思っています。
そのとき、社会がどんな方法をとるのか
見てみたい気もします