2007年09月14日

人生は上々だ。

なんて、ドラマがありましたね。10年くらい前に。
いや、結構面白かったんですよ。浜ちゃんとキムタク。

ココ最近思う事は「人生が上々になるかどうかは、自分次第だなぁ」です。
おおう、なんだこの当り前すぎる格言は。
環境がイヤなら変えればいい。自分がイヤなら変えればいい。
そういう話になりがちですが、そういうことではなく。
(それも真理だと思いますよ)

ずいぶん前に、「人はなぜ人を殺してはならないのか」という記事を書きました。それなりに反響もあり、嬉しい限りだったのですが、結局これも同じなんですよね。ただの「ルール論」。で、ルールそのものが生物という論理から言えば"絶対"ではないから、その解にも絶対的な答えは無い。「人はなぜ人を殺してはならないのか」→「そんなものに絶対的な答えはない」ということです。

世の中にルールというものが存在し、その存在意義と、そして時代によって変わってしまうというある種の軟弱性を見る限り、ルールというものは所詮、数多の価値観の集合体でしかなく、人はそれを「常識」と呼ぶのだと思います。結局、その程度のものでしかないと。

なぜ、万引きをしてはいけないのですか?
万引きを許してしまうと、社会が崩れるから。
なぜ、社会を崩してはいけないのですが?
たくさんの人がともに生きるために社会が必要だから。
なぜ、社会が必要なのですか?
たくさんの人が、幸せになるために社会を必要としているから。

つまり「俺に社会は必要ねえぜ」っていう人がいるなら、どうぞ万引きしてください、という話です。当然、「万引きはしちゃイカン」というルールがあるのだから、それを犯せば罰せられる。それは社会から外れた行為だから罰せられる。それでも構わないという奴がいたら、そら構わないでしょ。その代わり、全力で通報するけどね(笑)そして、牢獄にぶち込まれ、人権を剥奪され、職も失う。そりゃそうですね。人権も、職も、真っ当に生きる権利というものは、社会があって初めて与えられる者だから。そのために、皆ルールを守るのだし。

「自由には責任が伴う」

結局、究極的に言えばこの一言で全て片付くのかなと思います。
その"自由"を選択するなら、それに伴うリスク(責任)も受け入れましょう。

最近の若者が(って、僕もまだ26ですが・・・)認められないのは自由だけ選択して、そのリスクを受け入れないからでしょう。茶髪で何が悪い。深夜に出歩いて何が悪い。ネクタイしなくて何が悪い。いや、悪くないよ君達。でも、人は外見や行動で人を値踏みするもの。その人に気にいられようとしてないんだから「気に入れよお前」っていうのは無理がある。

で、人の幸福の話です。
結局ね、行き着くところは「自分が良ければそれでいいんじゃん」かと思うわけです。27年生きてきて。ホームレスの人も、フリーターの人もいる。そりゃ、軽蔑されますよ。税金払ってないんだもん(笑)フリーターの方は払っている人もいますが。まあ、そういう目で世の中から見られるわけです。でもね、本人が「別にそういう値踏みされたっていいよ」っていう人なら、この人は幸せなわけですよ。当り前ですが。

僕は、たぶん同年代の人間からすれば、いや、僕よりずっと年上の方からしても転職歴の多い人間です。まあ、僕のいた業界ではそんなにめずらしくもないんですが。この前の4ヶ月で辞めたのは異常だとしても、その前はそれぞれ3年と2年勤務してますから。もっと多い人はザラにいたし、派遣だと一年いたら長い方でしたしね。

ただ、それは僕の業界の話であって、その職歴だけ見たら「コロコロ変わってる奴だ」と思う人もいるし「おお、ちゃんとステップアップしとるなぁ」という人も当然いる。当然、それは受け取る側の自由であって、言っちゃえば僕の事を「いい奴」だと思う人もいれば「悪い奴」と思う人もいていいのと同じ事。

で、自分の幸福論を考えた時、これはどうなのかと。
それは、つまるところ「自分次第」なんですよね。
例えばAさんに「あいつ最低や」と思われても、僕がAさんにそう値踏みされることを気にしなければ、どうでもいい情報なわけです。それを決めるのは誰か?もちろん、自分ですねぇ。自分が「これでいい!」と思えばいいわけだから。そう考えると、人間っちゅうのは自由だなぁと思うわけです。

価値観も思想も、自分が幸せならそれでいいわけです。
自分の幸せには、当然他人の幸せも含まれてくる、ということもふまえて。
ということは、大事なのは「誰に認められたいか」ということをしっかりと選択することですよね。で、それは結局「自分にとって幸せとは何なのか」ということを明確に把握する事に繋がるわけなんですが。

例えば、今無職の僕は妹の旦那様のご家族にはさぞダメ人間に映るでしょう。そもそも同級生ですから(笑)「ウチの息子は結婚もして定職にもついてしっかりやってるのに、あの子はダメな子だ」なーんて値踏みをされるでしょう。気分の良いものではないです。でも、僕個人の幸福論として考えた時、義理の弟の両親(同時に同級生のご父母にあたるわけですが)の評価なんてどうでもいいんです。そんなもん、言わせておけばいい。僕には僕の幸せがあって、それを理解してくれない人もいる。それで構わない。でも、同じ言葉を僕の今の仲間にいわれたら、相当凹みますよ。人生の方向性を変えてしまうかもしれない。それぐらい重大なことです。

結局、気の持ちようなんだなと。
良い事も悪い事も起きます。人生ですから。
「犬も歩けば・・・」なんて言いますが、いや、仰るとおり。
棒に当たった事を軽傷だと思うか致命傷だと思うか。
もっと言うと、棒に当たってしまったその経路を失敗だと思うか、必要な道程だったと思うか。結局そういうことなのかなと。その道が無駄な道なら、棒に当たった事も無駄な傷でしょう。その道が幸せに続く道なら、棒に当たった事も試練として受け入れられるでしょう。

全ての人に受け入れられる事も無理だし、人生100点満点も無理。
あるべきは、自分の幸せの地を見つける事、ですね。

価値観なんて、所詮人のものであり自分だけのもの。
幸せに絶対はないわけで。

自分さえしっかり持っていれば、人生は上々です。



posted by 総さん−ソウサン− at 00:50| ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いいこと言うのぉ〜。
俺はそれを割り切れないのでしょっちゅう悩んでる。自分がいいと思えればいいわけね。
Posted by じゅん at 2007年09月14日 14:37
そうそう。
だって、究極的に言えば自分が幸せを感じる為に生きてるんだしさ。
だったら、ねえ?幸せならOKなわけでね。
Posted by 総さん−ソウサン− at 2007年09月15日 11:51
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