2007年08月10日

あれでキャリアカウンセリング?。

先日、派遣の登録に行ってきました。

最近の転職系サイトは、職業斡旋に留まらず、転職の方向性やプランに対するアドバイスも行ってくれるんですね。俗にキャリアカウンセリングと呼ばれますが。

派遣と同時にキャリアカウンセリングにもオンライン登録をしたので、その先日の派遣登録の際に合わせてキャリアカウンセリングも受けてきました。カウンセリングというぐらいだから、僕のキャリアや将来展望に対して何かしらのアドバイスや指導をしてくれるのかと思い、少し楽しみにしていたのですが、カウンセリングとは名ばかりの職業紹介でした。

僕より確実に若いオネーチャンが出て来て「こんなお仕事があります」なんて、あれでよく「キャリアカウンセリング」なんて言えますよね。笑わせてくれるなぁって思いましたよ。カウンセリングなのに始めからやることが決まってるってどういうことだよ(笑) 時には、仕事を奨めずに別の方向性を探らせる場合もあるわけだし、そこを考えて提供するのがあなたたちカウンセリングの仕事でしょうが。仕事紹介だけならWeb見ればわかるんだよね。あれなら、今日話をうかがって来た師匠のほうがよっぽどキャリアカウンセリングだったよ(笑)


でも、この話実はWeb業界もあまり他人の事をとやかく言える状態じゃないんですよね。

「Webコンサルティング」なんてうたっている制作会社が「SEO対策できます!」「アクセシビリティ配慮なら我社へ!」「CMS導入できます!」とか堂々と言っちゃってますからね。それは手法の話であってコンサルティングではない。「検索エンジン上位できます!」なんてのは、上位表示のお手伝いであって、根本的な解決になってないわけです。

コンサルティングとは、それらの手法を駆使して「いかに問題を解決するか」という「戦略」のことを指し、そこをいかに提供するかでしょう。


コンサルティングやカウンセリングなんて、そう易々と出来る事じゃないんですよね。相手を上回る知識と経験は絶対になきゃならないし、その上でコミュニケーション能力、プレゼン能力、プロジェクトマネジメント能力が必要とされる。最近大学を出たようなオネーチャンにできるわけがない。

この国のラベリング偏重価値観がもたらした、間違ったブランドの成れの果てですね。


僕は、そうならないように気をつけたいものです。


posted by 総さん−ソウサン− at 16:33| ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

突然の訃報。

訃報なんて、大抵は突然ですけどね。
それにしても、ショックです。

僕の古い友人が先月亡くなったそうです。
ずっと連絡をとっていなかったので「友人」と呼ぶ権利が僕にあるのかどうか、凄く迷うところですが、少なくとも幼少時代、幼稚園から小学生までは頻繁に遊んでいた友達の一人だったので、僕にとっては友人です。

ご本人の妹さんから聞きました。
mixiって凄いですね。「兄の友達を探していたら行き着いた」って。
まあ、学校コミュニティの管理人をやっているので、比較的同級生には見つけやすいんですけども。

すごいのは、妹さんは誰かに伝えたかったらしく、それは別に僕に狙いを定めて来たわけではないということ。その中で、去年中学の同窓会幹事を担い、今も仲間を引き連れて遊んでいる僕のところへ来たというのは、自分で言うのもなんですが、良い偶然だなぁと感じます。彼が、何かのおぼし召しで僕のところへ連れてきたんでしょうか。今日という日といい、そう感じずにはいられません。


本当に切ない。
僕の幼少の思い出には必ず彼は存在するし、今、時間をともにしている仲間の中にも、同じように彼は存在すると思う。同じ環境で同じ時間を過ごし、同じように家へ帰る。そういえば「通学路よりこっちの方が早い」と、子供心にちょっとドキドキする、そんな裏道を初めて教えてくれたのは彼だった。

先月、僕は何をしていた。
毎日、厳しい環境に苛まれながらも一生懸命仕事をこなしていた。
そんな時、彼は亡くなった。
僕は、何をしていたのだろう。
僕は、露ほども知らなかった。
僕に何かできなかったのだろうか。

人間の悪い癖ですね。
僕に何かできたわけがない。
そんなものは、ただの僕の自己満足に過ぎない。
同じように、これから先の未来について「僕に何かできることはないだろうか」というのもまた、同じこと。ただの自己満足でしかない。亡くなってしまった後に何をしても、故人は戻ってこないのだから。結局、自分の力を過信した、自分の存在意義を主張したいだけの、ただのエゴに過ぎない。



最近になって思うことがある。
よく言われる「自分の居場所は自分で作るもの」というのは、まったく真理だと思う。けれどそれが全てだと思ってしまうと、それはエゴでしかなくなるのだと、最近は痛感させられる。自分の居場所は自分で創造するものだけれど、自分の居場所を形成しているのは、自分ではなく周りにいる人達だと。確かに、自分の立ち振る舞いや言動、もしくは持っている技術によって自分の居場所というのは創造されていく。けれどそれは間接でしかなくて、その居場所を形成しているのは、周りの人間。周りの人間が「君は、こういう人なんだね」と理解をし、評価してくれるから自分の居場所がそこに生まれる。

自分の生命を維持するために、水分を確保しようとする。水分を蓄えるものといえば、例えばコップ。コップは確かに人がつくるものだが、結局のところ命に必要な水を蓄えているのは、自分ではなくてコップだ。水を蓄える為の「器」を人が作ったに過ぎないわけで。だから、人間がいくら万能になろうとも、その「器」そのものを乱暴に扱ってしまっては、何もなしえる事はできない。

僕の居場所は、僕の行動や人間性を受けた仲間が作ってくれている。彼らが存在するからこそ、そして理解してくれるからこそ、そこに僕の居場所が出来る。自分ひとりで出来ている訳ではない。と同時に、僕も他の誰かを受け入れ、好意を抱き、そこにその人の「居場所」が存在する。彼がそこにいてくれるのは、僕がそこに彼を映し出す「居場所」の一つを、僕の体内に形成しているからだろう。

そう考えると、先月亡くなってしまった僕の友人の「居場所」は、少なくともそのカケラは僕の体内に存在する。彼とともに同じ時間を過ごし、一緒に走り回ったその時間は、多くの大人のそれと同じように、僕という人間の礎になっているし、彼もまたそうだったろうと思う。彼の「居場所」の一つを僕は持っていたと思うし、久し振りに出会えばまた同じように、やあ、なんて言って彼を受け入れただろう。それは、今も存在する立派な彼の居場所だったと思うし、そして僕の心や思い出に存在するその彼のための器は、誰にも消す事の出来ない、彼がこの世に存在していた証だと僕は信じて疑わない。


大人になってからは一度も会っていない。
今、子供の頃と変わらず笑いながら盃を交わす仲間と同じように、彼とも今の話、ガキの頃の話、これからの話をしたかった。そう思えることが、そういう想いを抱ける事が僕は幸せだと思うし、それが叶わなくなってしまったことに心を痛めることこそが、人間の価値だと僕は思う。


彼のためだなんていうつもりはさらさらない。
彼がこの世に、ここに存在したという証明の一つが僕の中に存在する。
その証明に向き合い涙できることが、僕の、そして彼の財産だと思う。

いつも笑いあうことばかりが人間の価値ではないさ。
彼が遺した彼の居場所。それを自分の中で感じられる事を大切にして、
ポッカリ空いた心を受け入れようと思う。
彼に感謝の意を込めて。

心より、ご冥福をお祈りいたします。
posted by 総さん−ソウサン− at 00:20| ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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