そんなわけで「ちょっと不思議な造り」をしている我が家は、一級建築士に全てを依頼しているいわゆる完全注文住宅なのです。割と記憶力の良い方なので覚えているのですが(5歳までの記憶で当時引っ越す前までに住んでいた小田原の社宅を一人で見つけたり)、当時は家を建てるということが良くわかっていなくて「お祖母ちゃんと一緒に住むのよ」と親に言われていたものの、「毎週末に遊びに行っていたあの祖母ちゃんの家に自分達の部屋がくっつくんだ」ぐらいに思っていたのに、いざ引っ越すという話で行ってみれば全然違うところで祖母との同居が始まってしまったわけですね。子供には何がなんだかサッパリの話ですよ(笑)
そんな疑問もすぐに解消されて、元々祖母の家(今の実家)があった所は歩いて10分ぐらいの所にあり、家族で足しげく通うことになります。そこに新しい家が建っている最中ですからね。上棟式なるものがあって(家を建築したことがある人はご存知だと思います)、骨組みだけの土台を組んだ状態で飲み会をしていたのを覚えています。
家が建築される間、何度も通ったその時期にはもちろんたくさんの大人がいました。ふと、大工のオジサンやペンキを塗るオッチャンなど何人かの職人の中に、明らかに毛色の違うオジサンがいました。「藤本のオジサン」と呼んでいて、赤のワーゲンゴルフに乗っていて、いっつも我が家の脇に車を停めて、なにやら建築途中の家でよくオッチャン達や両親と話をしている。服装もほかのオッチャン達に比べればはるかに品が良くて、ワーゲンゴルフは母の大好きな車であり、男の子である僕はそのように洗脳されていたので(笑)、「赤のワーゲンゴルフ」はもうそれはそれはイケてるカッコいい車だったりしたのです。その上、僕は子供の頃はおとなしい静かな子だったので(事実は、厳しい親父殿が怖くて静かにしていなきゃと思っていただけなのですが)、あまり人と、ましてや大人と喋るような子ではなかったのですが、藤本のオジサンは気さくに僕に話しかけてくれて、当時はまだ年齢的に女の子の方が鼻っ柱が強く、僕が妹に気圧されてばかりなの見てを「がんばれがんばれ!」と応援してくれた、そんなオジサンでした。
カッコイイ服を着て、超カッコイイ車に乗って、僕に気さくに声を掛けてくれて、5歳児には充分過ぎるぐらいの影響力ですが、極めつけは「お家は全部藤本のオジサンが考えて造っているのよ」という衝撃の事実、もう完全に僕のヒーローの誕生です。
当時、何を話したかなんて全然覚えていないけれど、ヒゲの生えた気さくなオッチャンで、凄く優しい人だったのはずっと覚えています。5歳児にとって別れと言うものは別段寂しいものでもなく、というよりはそのような情緒の育つ前なので、家が建って、住み始めて、いつまにか藤本のオジサンはいなくなっていました。別れの情緒は育っていなくとも、一緒に接して見てきたことから「藤本のオジサンは家を造る人」というのは理解できていたので、まだ芽生えることのなかった寂しさを受け取らぬまま「オジサンは次の家を作りにいったんだ」とどこか納得していた僕がいました。
その後歳を重ねるにつれ「ああ、あの人はそうか。一級建築士の人だったのか」と大工のオッチャンやペンキ屋のオッチャンと違い、人と話をするだけでなんだかよくわからなかったオジサンの仕事に10年以上の時を経て気付くことになります。そしてまた時が経ち、二十歳を超えてちらっと調べてわかったことは、「神奈川の藤本といえば、有名な建築家」という話を、建築業界を目指す友人から聞いたことでした。
何の因果か運命か、あれからちょうど二十年たった僕は、藤本のオジサンと同じように人と人の間に立ち、話をすることが仕事のディレクターとなりました。お客様の要望を適確に捉え、提案をし、制作部隊にそれを落とし、全体をコントロールしてお客様の喜ぶ良いものを造る。不思議なもんです。
ふと、最近思い出したのです。
そういえば、藤本のオジサンは今どこで何をやっているんだろう。
僕の事を覚えているだろうか。二十年もたった僕の姿は想像もつかないだろうなあ。
そうしたら昨日偶然、藤本のオジサンの現在を知ることができました。
藤本のオジサンはやっぱりすごい人でした。
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