7月3日。
僕は帰宅中の電車の中でその一報を心ある友人二人から同時にメールで聞きました。「やっぱり・・・・」と思った後に、自分の目を疑った。先入観で「代表引退」と読んでしまっていたから。
気が動転したと言ってもいいぐらい錯乱した。
本当に残念で、誰しもが思ったことと同じように「まだまだできるのに・・・」という想いでいっぱいだった。遅かれ早かれ、欧州のトップシーンからは身を引くことがあるかもしれない。けれど、それでもJリーグではまだまだ彼の力は絶大だったろうと思うし、晩年をJリーグで過ごして引退するものだと思っていた。必ず生で観戦に行こうと思っていた。しかしそれはもう叶わない。
■引退表明を全て読み終えてただ、彼の引退表明の全文を読んだとき、心にポッカリ穴が開き、これから彼のいない代表を見なければならないことに巨大いや極大な喪失感や寂しさを味わうのだというやりきれない感情を持った反面、彼の引退に納得してしまった自分がいた。そして、今まで夢を与えてくれて本当にありがとうと。
彼の「メール」と称されるサイトの文章の全てに目を通せば通すほど、僕が描いていた「中田英寿」という人とほぼ同じ人間像がそこにいて、そして彼の心情がダイレクトに伝わってきた。多くのマスコミや著名人、一般のブロガーやmixiの日記で彼の素直な表現に驚き「今までとは違うヒデ」というコピーをそこかしこで拝見したけれども、僕にはむしろ今までどおりのヒデが、描いていた通りのヒデがそこにいたという印象だった。
■中田英寿という人の人間性中田英寿という人のマスコミのイメージは「孤高の人」「わがまま」「クール」「文句ばかり」「独善的」「自分勝手で周りのことを考えない」「自分の要求ばかりを通す」。僕の印象は正反対。芯は強いがそれはあくまで高すぎるほど高い目的意識に支えられているもので、裸になった心そのものは人一倍弱く、それは純粋さからくるもの。中田英寿と言う人は、本当に「純粋な心の持ち主」だと思うし、中田をマスコミのいうイメージのまま受け取る人はあまりにマスコミの作り上げた虚像に踊らされすぎていると思う。
中田の引退を受けて、心無い人が彼のバッシングをまたもや始めて、そして目に余るのは「逃げ」だとか「義務の放棄」だとか「都合の良いところでやめる」という、あまりに主観に頼ったイメージで語る人を目にするが、これははっきり言って筋違いだと思う。単純に価値観の違いであって、中田英寿は最後までプロの中のプロだったと思うし、とても好意的でそしてサッカーとサポーターを愛していたと思う。同時に、人一倍愛されという願望も持ちながら。
■プロ精神と引退の価値観の相違カズを引き合いに出す人がいる。
彼こそが真のプロフェッショナルで、途中でサジを投げてサッカー以外のものに手を出す中田はカズに劣るし、サッカーへの情熱も乏しいと。日本が誇る近代日本サッカー最高のストライカーであるカズは、紛れも無くプロフェッショナルの鏡だと思うし、その人間性も評価されるべき部分だと思うけれども、それが=「ヒデはプロではない」ということではない。それは盲目故の偏見だと思う。
彼は肉声のつまったVTRでこう語っていました。
「期待されるプレーができなくなったから」これこそが、彼のプロフェッショナルの真骨頂であるし、ある意味ではカズにはもち得ない中田英寿の賞賛すべきプロの姿。彼にとってプロとは「サッカー選手として夢や感動を与えること」ではなく、「サッカー選手として、期待されるようなプレーすること」であり、その結果「夢や感動を与えること」なのだと僕は捉えています。そして、ここからが中田の考え方の特筆すべきところであり、それこそが「純粋」たる由縁。彼の哲学からすれば「期待されるプレーが全力でできなくなった以上、プロでいるべきではない」という「妥協を許さない」という一つのプロフェッショナルなのでしょう。KINGカズは、トップフォームを失ってなお未だプレーを続けていますが、あの伝説となるような、「日本の三浦カズ」と胸を張ってアジアに、世界に声高に叫べるようなプレーを今もって見せてくれているでしょうか?答えはNOでしょう。少なくとも数字や目に見えるプレーにおいて、今の三浦カズは我が国の二部リーグで得点を量産することもできない一介のFW。確実に現時点での実力を踏まえれば、玉田や大黒、佐藤寿人らに軍配をあげるべき。
別にカズを否定したいわけじゃない。
カズは本当に素晴らしい選手だし、これからも本人の意思が続くまで現役でいて欲しい。単純に、彼ら二人の哲学で言えば中田英にとってカズの行動は「プロ」では無いでしょうし、逆もまたしかり。ただの「プロ」と言うものに対する価値観の違いであって、どちらも超がつくほど立派なプロだと思う。「求められる最高の動きができなくなったならやめるべき」と「何かを求められる以上衰えてでも傷ついてでも諦めずに続ける」という、二つの、決して否定されるべきではないプロフェッショナルの姿だと思う。
■ヒデの心の疲労全文を読んで、ひしひしと伝わってきたのは彼の純粋さ故の、今まで戦ってきたことによる心身の疲労。特に、心の疲労。内外の敵と戦い続け、純粋さゆえに妥協をすることができず、ある意味で求めすぎてしまうために、傷つく。メディア対応については詳しくは別エントリに譲るが、結局それも彼のプロフェッショナルであり、彼の妥協を許さない純粋さ故。だから、FANやマスコミに傷つく。相手を信じたいからこそ、求め、諦めず、最後は裏切られてしまう。多くの選手がそうしているように「マスコミなんてそんなもの」と割り切ってしまえばきっと楽なんだろう。けれど、サポーターと繋がる重要な線となるマスコミに全てを曝け出し、自分を愛してくれる人に真実を伝えたいと思うが故、求めるものが大きくなる。事実、彼は高校時代からプロになって数年の間は、マスコミに好意的な態度を取り積極的にコミュニケーションをとる選手だった。彼を「孤高の人」「クール」「マスコミ対応を怠る選手」として位置づけてしまったのは他でもない、純粋な彼を裏切ってしまったマスコミであり、それに踊らされ彼を傷つけてしまった僕ら一般人だと、僕は思っている。
■各界の語る中田英寿事実、僕が敬愛してやまない名波にしても、あの前園にしても、今の中田英寿という虚像が出来上がる前、渡伊以前に彼と接していた人間の多くは、中田英のことを口をそろえて「人なつっこい奴」と表現する。あまりに、マスコミの作り上げた「中田英寿」とはかけ離れたフレーズ。彼の発する公式HPでのメッセージにしても、数多くの書籍にしても、マスコミというフィルターの通らない中田英寿そのものが表現される場面では、彼は自分の趣味や趣向を惜しみなく表現している。だいたい、根本的な話になるがクールで孤独を好み、独善的な男が、世界中に友人を作れるだろうか。あのロナウドが、デルピエロが、ムトゥが、そんな男に魅力を感じるだろうか。それは国内においても例外ではなく、彼と親交のある人間は大抵「人懐っこく喋りやすくて礼儀のしっかりしている人」だという。あの辛辣で真実であればきつい表現でも発することを厭わない金子達仁にそう言わしめる。
■純粋が故の不器用さ『プロになって以来、「サッカー、好きですか?」と問われても
"好きだよ"とは素直に言えない自分がいた。』
当時こう言っている中田の事について、前園に、城に、名波に、山口に問えばいとも簡単に逆転の答えが出てくる。
「いやあ、あいつは結局俺らとおんなじ。サッカー好きだよ。めちゃくちゃ好きなんだよあいつだって。」純粋であると言う事は、裏を返せば頑固で、不器用だと言う事だ。彼が世界最高の人間だとも思わないし、彼よりもっともっと上手くマスコミと付き合いバランスのとれる人もいるだろう。ゴン中山なら、中田のような扱いはされないだろうし、中田よりももっともっと精神的にタフな人だと思う。しかし、それによって、中田英寿という人の人間性を否定し、マスコミの言葉を鵜呑みにし、彼を否定するのはいくらなんでも一人の人間に多くを求めすぎだと僕は思う。日本代表のエースとして戦い、信用できないマスコミに傷つけられ、それでも自分を愛してくれる人に少しでも自分の事を表現することをあきらめず、なんとか本当の自分を表現しようと努力してきた人間に対して、そしていくつもの感動と勇気を与えてくれた、常人では到底成しえないような偉業を成し遂げ、僕らに大きな大きな感動を与えてくれた人間に対して、毎日配信される愚劣な情報を自らでその真偽を見極める努力もせずに彼を言及するのは、毎日平穏な暮らしを送りピッチに立って骨身を削ることの無い、サッカーにおいて何の重圧も無い僕ら一般人がそれをするのは、どう考えても僕らの方が「自己中心的」だと思う。
■目的意識の高さゆえの献身性特に年齢を重ねるにつれ、目的意識の高さがどんどんと芽生えたように思う。
それは、結局上記純粋さだと僕は思うし、それからくる「日本サッカーに対する想い」だと思う。ボランチでの守備にしても、莫大な運動量にしても以前の中田には見られなかった。「今、自分に何が必要とされているのか」「今、自分は何をするべきなのか」を強く意識するからこそのプレーだと思う。
時に、この4年間での彼の発言に対して「ぶっきらぼう」だとか「人の気持ちを考えていない」とか「文句ばかり」という人がいる。「相手のことを考えろ」という人がいる。僕はそれはサッカーという視点から見れば甘すぎると思うし、人間観察という視点からすれば浅すぎると思う。思い返して欲しいのは、98年の中田は確実にそのようなタイプの選手ではなかったし、個人の主張そのものだった。個人の主張の中で言われたことを、求められたことをキッチリとこなす。そんなプロだった。その中田が他人に対して言及し、チームに檄を飛ばす。彼はゴン中山でもなければ、ドゥンガでもラモスでも柱谷でもない。もともと、そういうタイプではなかった。どう考えても、彼が他人を傷つけるために、良いものを求めすぎるあまりに独善的に発している発言だとは思えない。そう、中山やカズ、名波ら彼より上の年代の理解者は理解していたと思うが、中田は必要だから声を大にして叫んだのだろう。自分の経験からすれば、チームにおいて言うべきは自分だと。
■中田の苦言の真意と必要性当たり前すぎることだが、誰だって好き好んでチームメイトに苦言を言うわけがない。僕には、やっぱり中田は自ら進んで「ヒール」を演じていたのだと思うし、同時にあの程度の言葉でへこたれるような選手は、プロになるべきでは無いと思う。たぶん、これはサッカーやその他団体競技を本気で取り組んだ人でなければわからないかもしれない。あの程度のことを言われるのは日常茶飯事だし、監督なんてもっと怖かった。どつかれまくったし、怒鳴られまくった。チームメイトともケンカをしたし、言い合いもした。けれど、それぐらいやらなきゃ、本当のチームにならない。あの程度の苦言に耐えられないようなら、本気で取り組むのはやめた方が良いと僕なんかは思ってしまう。
■ヒデに望むこと全文を読み終えて、涙が出そうになった。
ヒデは結局、最後まで全力で走りぬき、そして僕らサポーターを愛し、諦めずに表現しようと努力してくれたのだと。「楽しかったサッカー」を見失うほどに、走り、戦い、求められるものを最大限に表現しようと努力してくれた。その結果、僕達はワールドカップという舞台の楽しさを最大限に感じることができたし、それ以上に「極東の弱小国のHEROが、それまでの予想もつかないような大舞台で絶大な敵を打ちのめす」という途方も無い感動をと興奮を僕らに与えてくれた。本当に感謝してもしきれない。
29歳という年齢を考えれば、まだ戦える肉体を持っているのかもしれない。しかし、中田英寿とて自分の人生のために日々を送るわけで、このままプロサッカー選手を続けていても、あの頃のようなサッカーを楽しむ気持ちには戻れないと思ったのかもしれない。このまま歳を重ねれば代表においてもクラブにおいても最年長者の部類に入るのだから。もう、自分が若かりし日にそばにいた自分のよき理解者はいない。このまま心を浪費し続けても、自分の人生に良い結果は訪れないと判断したのではないかと思う。
ファンとしては、もちろんもっともっとやってもらいたい。もっともっとできるのだから。Jリーグでだってヒデを見たかった。代表でだって彼をまだ見ていたかった。でも、ここまで戦い続け、純粋に日本サッカーのことを考えて傷つき、それでも立ち上がってきたヒデが、「楽しかった頃のサッカー」に戻ることを宣言し、卒業するというのを、僕は否定できない。それぐらい、君は戦ってきたさ。
引退したばかりというのに、Jの役員だの、功労賞だの、協会幹部だのといくつもの話があがってきている。彼を使いたいのはわかる。力を借りたいのはわかる。けれど、ブラジル戦のピッチに倒れ、心がボロボロになり、大好きだったサッカーへの想いを失ってしまうほどに戦ったヒデを、今はそっとしておいてあげて欲しいと僕は想う。
僕達のHEROはとてつもなく頑張ってくれた。
またいつか、違う形でピッチに戻ってきてくれるかもしれない。
もしかしたら、戦士としてまた戻ってきてくれるかもしれない。
だから今は、見守りたいと思う。
僕達のHEROの安らかな休息を。