2006年05月26日

宗教が嫌いなもう一つの理由。-どんど焼きのお話-

以前に僕が宗教が嫌いな理由は「再び顕彰会と戦うのかもしれない」でツラツラと書きましたが、他にもあったりします。

僕が小学生の時の話。
どんど焼きという行事がありました。

■どんど焼き
一般的には1月15日に門松や注連縄、書初めなどを持ち寄り燃やす行事。
燃やした火で餅を焼いて食べ健康を祈願したり、燃えかすの舞い上がる状態から運勢を占ったりすることもある。

―はてなより抜粋―


毎年冬休み明けにあるんですよ。
正月をぐうたら過ごして、1月も10日近く過ぎた頃に学校が始まると、そりゃあもう子供ながらに「かったるいなぁ」なんて休みボケしちゃいますね。

そんな時にちょうど行われていたのがこの「どんど焼き」。
各自自分の身長ぐらいある木の枝を用意して、登校時に小学校の生徒はみ〜んなそれを持って(イタズラしながらw)小学校へ向かい、その日はどんど焼きの時にたべるお団子を自分達で作ったりします。

お団子が出来たら、それを持ってきた木の枝に一人3つさして校庭へ。
校庭でいくつかの場所にわかれて、上記説明のようにお正月に使った門松やら自分で書いた書き初めやらを焼きます。大きな焚き火が校庭の中でいくつか行われている絵を想像してくれれば早いです。

その大きな焚き火の火を使って、自分達で作ったお団子を焼くのですね。枝にささった団子の上からアルミホイルでしっかり包んで、焚き火の方に差し出して焼く。これ、子供ながらに凄く楽しいんですよ。今、ちょっとお金出せば網焼きのお店とか、美味しいところありますが、あれって目の前で自分で焼くから美味しいっていうのもあると思うんですよ。それと同じで、自分達でお団子を作って、自分達で用意した木の枝にぶっさして、大きな火の前で皆で楽しく喋りながらまだかまだかと焼けるのを待つ。

またね、これは先生達が確信犯的だったのか「どのくらいになったら焼けてる証拠だよ」っていう明確なラインをはっきりとは教えてくれてないんですよ(僕の記憶ベースですが)。だから、団子を食べるのを我慢しきれなくてつい早めに食べちゃったり(多少半生でも平気ですからね)、そこはもうじっくりじっくり焼く子がいたり、早く食べ過ぎて友達のおこぼれを狙っている子がいたり、焼き過ぎて枝が折れて火の中に団子が全て落ちてしまう子がいたりw、ともうお祭り状態。

と、そんな時一人のクラスメイトの男子が、校庭に出ず下駄箱(生徒玄関?)でたたずんでいました。当然、僕も含めクラスメイトは不思議に思う。なぜ、彼はこんなに楽しいどんど焼きに参加しないのか。

彼の口を突いて出たのは宗教でした。
ボソっと僕らにそう言った後、先生が来て再度彼の家は宗教で禁止されていることを伝えた。宗教についての深い知識など小学生にあるわけもなく「親がそういう風に信じてて、禁止しているんだ。しょうがないんだ」と認識するしかなかった。

今思えば、彼はどう考えても自分の強い意志で参加を拒否したわけではないと思います。どう見ても、夕方の薄暗い下駄箱に一人たたずんでいる彼は、そして彼の声は元気がありませんでした。そりゃあそうさ。僕がそうであったように、彼だって小学生だったわけで家の宗教というものにそこまでの深い理解などあるはずもない。そんな小学生見つけるほうが大変というものでしょう。皆が校庭で自分達で用意した枝を持って走り回って、楽しそうに自分達で作って焼いたお団子を食べる姿を見て、クラスメイトの彼は寂しかったんじゃないかと思うほうが、健全な感覚だと僕は思います。

彼の家の宗教がどんなものかなんて全く知りませんが、
このどんど焼きという儀式は、神仏を祭った物を焼くわけだから
それが彼の家の宗教に反したのかもしれません。
けれど、宗教ってそんなに大事なものでしょうか?
ちょっと僕には無い感覚なのでわかりません。

決して宗教を信ずる全ての人を否定したいとは思いません。
けれど、宗教を信ずる方の中にはやっぱりどうしても盲目的な人が多い気がしてなりません。宗教は、少なくとも人が不幸になるためのものではなく、幸福になるためのものだと思っています。ちょっと物理的な言い方になってしまうけれど、宗教と言うのは考え方であって、幸せになるための手段でしかないと思うんですね。

そう考えると、僕のクラスメイトの彼が不憫で仕方無いんですよ。
人間が出来上がった大人は良いと思います。
自分の信じる宗教に沿って、強い意志を持って禁欲なり行動なりをすれば良いと思います。ただ、大人の都合で子供にそれを強要するのは、僕には親のエゴ以外の何者にも映りません。

ある程度、親の価値観に左右されるのは仕方ないとは思います。親だって万能ではありませんから。けれど、同級生のほとんどが参加する行事をたった一人自分の子供だけ欠席させるのはやっぱり違うと思うんですよ。親が子供に宗教的な行動を義務付けるにしても、それは親のためではなく「そうすることによって子供が幸せになる」でなければならない。そう思います。

宗教に対する理解のまだ浅い子供に、それをさせるのは無理があるし、何より彼が大人になってその宗教を選ぶかどうかもわからない。そんな子供に対して「皆が参加してるものを敢えて欠席させる」というのは、どうしても僕は子供の幸せを考えているとは思えません。考えていたとしても、あまりに現実が見えていないと思う。

だってきっと、僕はこのどんど焼きの想い出を「楽しかった想い出」と思えるし、同じ時を過ごしたほとんどのクラスメイトがそうだと思います。けれど、毎年ただ一人参加できなかった彼にはきっと「良い思い出」にはなれど、「楽しかった想い出」とは思えないんじゃないだろうか。

これって、親子の話で言うと「お塾」の話に似てますね。
子供を塾に通わせることが目的になっちゃっている親御さん。
塾に行ったって本人がちゃんと勉強しなきゃ意味が無い。
塾は手段であって、目的じゃない。

手段と目的を履き違えたらいかんです。
posted by 総さん−ソウサン− at 20:17| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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