2006年03月27日

安直な自己犠牲なんてただの自己満足さ。

以前にここで取り上げたミスチル「HERO」の歌詞。

「たとえば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして
 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ」


この歌詞について某BBSで話題になっていて。
そこで、目に付いた見解に僕は激しく違和感を覚えたわけですよ。

「自分がHEROに成れない弱虫な事を愛する人のせいにして言い訳にしている」

この歌詞は、そんな単純な心境を語っているものだとは僕は思えないわけですよ。自分が死ねば、世界は救われる。生きてさえいれば愛する人は幸せ。と、いうほと単純なものじゃない。愛する人が幸せを感じるのは「自分(HERO本人)のいる世界が救われること」であって「自分がいない世界」じゃないですね。その上、愛する人は愛していた相手である「自分」が世界のために命を絶ったHEROだという十字架を背負って生きていかなければならない。きっと、どんな人間も死んでしまったHEROには叶わないでしょう・・・。この時点で、何も考えずに「世界を救うために自らの命を絶つ」というのはある意味で「独りよがり」ともとれちゃう。

つまり「愛する人」にとって最も幸せな形は「自分も生き残る世界」じゃないでしょうか。自分を「愛する人」に置き換えてみると、わかりやすいかも?。自分のために、世界を救うために愛する人が命を絶たれるなんて、誇らしくはあっても幸せではないでしょう。

物凄く単純な話「世界を救うために命を落としたHERO」は「その世界を救うこと」において最も不幸を味わった人。その不幸を買ってでも世界を救ったからこそHEROなのですが。しかし、その瞬間に【HEROの愛する人】は「その世界を救うこと」において「愛する人を永遠に失った二番目に不幸を味わった人」となってしまう。捉え方によっては「愛する人のいない世界」を生き続けなければならないので「最も不幸を味わった人」になってしまうかも。

それらにプラスして、自分(HERO本人)だって死にたくないし、愛する人のそばにいたいという気持ちもある。

そういう複雑な心境だからこそ、この歌詞に繋がるんじゃないかと思う。
『愛する沢山の人達が、僕を臆病者に変えてしまったんだ。』
愛する人の存在が「世界を救うHEROになれない=臆病者」に変えてしまったんだと。

この歌詞の最もカッコイイ所は、
「そんな僕だけど、それでもキミだけのHEROでいたいんだ。幼い頃に夢見た大それたもんじゃなくても」
という、自分の弱さや小ささを曝け出してなお、HEROでありたいという矛盾を受け入れて等身大の自分を訴えている所こそが、カッコイイと思いますね。

人間には、特にこの国には「己の存在を否定すること」という美学があって、周りのために自らの存在を消すことがとてもカッコイイ事だと思われている。もちろん、それはそれでとても有意義なことだと思うし、評価されるべきことだと思う。けれど、それが全てではないし「自分が存在しなくなること」というネガティブな現実も冷静に受け止めるべきだと僕は思ったりしています。

何かのために死ねばいいってもんじゃない。
犠牲は相手の幸せが伴って初めて意味を持つ。


posted by 総さん−ソウサン− at 19:41| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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